第五十九話、魔獣
狭い所が好い。
適度な湿気が必要だ。
暗所であれば尚好い。
しかし、偶には日の光を浴びねば立ち行かぬ。
気分も滅入るし、日干しがてら庭へ出てみた。
おや、と思った。
普段、庭で暴れている影どもの姿が見えない。
元帥に召喚でもされたか。
まだ幼年ということもあり、彼女の権能には謎が多い。
魔霊の専売である権能を人間が持つなど、当然だが、かつて無かったことだからだ。
一時の安寧を得た面樹どもが、寄り集まって情報の共有に励んでいた。
彼ら人面樹は、結果的にではあるが、黒騎士の雛形になった魔霊だ。
「根」とは別に「本体」が存在し、本体を叩かれない限り、根が枯れることはない。
木々を変質せしめ分身と成すため、古きより王城を守護してきた樹海は、今や人面樹どもの巣窟と化していた。
枝で土壌を削って下達の文書を遣り取りするので、覗き込んで確認することもできた。
魔術師が、元帥のために魔剣をひと振り鍛えて贈るのだという。
好いことだと思った。
今、元帥が用いている剣は、軽いが切れないのだと聞いたことがある。
それでは自衛には心許ないと常々思っていた。
結構なことだ。
しかし、まだ赤子だった彼女を一人で歩けるまで育てたのは、面樹どもである。
どう思うかと尋ねると、面樹どもは、影どもが無能だから剣が必要になったのではないかと迂遠な表現で伝えてきた。
…此奴らは、一向に仲違いを正そうとしない。
同じ魔霊なのだから仲良くしろと何度か言い渡したのだが、諍いの原因が元帥の親権とあって、なかなか解消の兆しが見えないのだ。
魔術師も骨を折ってくれているようだが…
同意を求めてくる面樹どもを振り払い、重い身体をずりずりと引き摺って進む。
庭の中央には優美なこしらえの噴水が設けてあり、一帯は樹々が刈り取られているため、日当たりが良いのだ。
支道を抜けた先、石畳が敷き詰められた広場では、姫君らが珍しく姉妹揃って、噴水の縁に腰掛けていた。
何せこの巨体だ、こちらに気付いた姉姫が、長い睫毛を瞬かせて振り向き、口許を綻ばせると、軽やかに片手を振った。
以前は仏頂面ばかりだった少女が、美しく成長したものだと感慨深くなる。
その傍らで、姉に遅れてぺこりと会釈した妹姫は、やはり昔の姉姫と似ていると気付くも、当時の彼女ほど鬱屈したものは感じない。
姉姫が、守っているからだ。
自分もそう在りたいと思う。
魔霊たちは、自分にとって弟妹のようなものだ。
あまり近付いて傷付けでもしたらと思うとぞっとするから、少し離れた位置で身体を休める。
姉姫は察しが良い。
「もう少し寄ったら? あなた、溶かさないことだって出来るんだから」
つまり、溶かすことも出来る。それが厭なのだ。
お構いなくと手文字で伝えると、姉姫は仕方ないといった様子で苦笑し、けれど直ぐに何かを思い付いて悪戯のように笑った。
「おやっさんは、骨っ子と仲が良かったよね」
スケルトンのことだ。
仲が良い…と言うより、戦友だ。
女王陛下に仕えて、長い…本当に長い歳月を共に過ごしてきた。
先に逝ってしまった戦友たちのことを想う。
人間が憎いと思ったこともある。
だが、憎しみは際限の無い迷路のようなものだ。
死に行く者たちの気持ちを考えるなら、敵は尊敬できた方がいい。
そう考えるようになった。
姉姫が、目を細めて手招きをする。
「そこからじゃ見えないよ。おいで」
王族は、魔霊を生み出し支配する力を持っている。
彼女たちの声には、魔霊を縛り従わせる、抗い難い霊力がある。
渋々と姉姫の脇を陣取ると、妹姫が小さな手を伸ばして自分に触れようとしてきた。
びびった。
しかし、寸での所で姉姫が制止してくれたので事なきを得る。
「まあ待て、妹よ。おやっさんは接触恐怖症なんだ。人の嫌がることをやってはいかん」
が、妹姫は強情だった。
「そんなこと言ってたら、いつまで経っても治らないでしょ。大人なんだから、自分の身体のことくらい、自分できちんとしないと駄目でしょ」
しかも正論だった。姉に似て利発な少女である。
ぐうの音も出ない。
結局の所、自身を完璧に制御できたなら何ら問題無い筈だからだ。
しかし姉姫には、また別の見解があるようだった。
「絶対ということは、この世にはない。どうしてもと言うなら、マウに頼みなさい」
「どうして?」と首を傾げる妹に、姉姫は告げた。
「絶対に許可しないからだ」
……。
広場の向奥では、盟友のスケルトンが黒騎士たちに剣の手解きをしているようだった。
…元帥も居るのだろうか? ここからでは見えないが、黒騎士たちの陣形から、そうと窺える。
「隠れて見えないけど、エメスもいるよ」
じっと見詰めていると、姉姫が補足してくれた。
「エメスで自分を覆って、初撃をいなしてから、至近距離から黒騎士で包囲襲撃。エメスは待機。
包囲したのは、たぶんマウの狙撃を待ってるからかな。だとすれば、マウは囮で本命はエメス…」
戦術のことは、よく分からない。
自分が考えるべきことではないからだ。
進むも退くも億劫なこの身では、下手な考え休むに似たりだ。
だから、姉姫の予見に反論するのは自分ではなく、その妹で良い。
「でも姉様。マウは、近くからでないと力を発揮できなくってよ」
その声が、どこか誇らしげであった。
きっと姉に褒めて貰いたいのだろう。
しかし妹の背伸びは、姉にとって面白くないのが、この姉妹の悲劇である。
「…というのは見せ掛けで、実は近くに潜んでいて魔力で姿を消してるんだ。これ、わたしの発案ね。おちびは他のにしなさい」
実に大人げない対応である。
褒めて貰えなかった妹姫は、頬を膨らませて、そっぽを向いた。
「 知らないなら知らないって言えばいいのに…」
幼稚な挑発に、姉姫はしたり顔で鼻を鳴らした。
「お姉ちゃんは、何でも知ってます」
元来、姉姫は賢い少女である。
…が、あちらで剣を振っている友人によれば、それも虚栄であるという。
魔霊たちの総意は、友人に味方している。
元帥と手を組んで、奇行に花を咲かせるからだ。
つまり元帥も、姫姉妹で言うなら、それも失礼な話だろうが、姉寄りの人間だと思われている。
悲しいが、それは事実だ。
元帥は、あまり物事を深く考えないし、ときどき魂消るような失策をやらかす。
この国に魔術師が来て安堵しているのは、自分だけではない筈だ。
魔術師というのは便利な生き物で、大抵の厄介事を片付けてくれる。
特に今代の魔術師は、言われずとも勝手にてきぱきと働くので、非常に重宝されていた。
友人も…喜んでいた。
「魔術師」が帝国の軍門に降った…これが何を意味するのか…果たして人間たちは気付いているのだろうか?
女王陛下は…どう、だろうか…