第五十六話、遭遇
魔霊たちは不老長寿だから、欲望が希薄だ。
女王さえ存命であれば、それだけで生命活動に支障を来さないのだから、そもそも何かを欲しがる必要がない。
だから、たいていの魔霊は何かしらの生き甲斐を求めて生きる。
今、掛け声と共に二階の窓から身を投げ出したエメスは、帝国の尖兵として名の知れた存在だ。
「魔術師!」
「…エメス!」
彼女はマウの中でブラックリスト入りしていたから、魔眼が自動的に反応して「金髪碧眼の少女」の姿を捉えた。
使い魔を見たいと駄々をこねて視覚を開発された将軍は、活性化した魔眼のイメージを目で見ることができた。
将軍の肌の露出について熱く語っていた(よりによって本人に)変態魔術師の片目の先に独立した眼球が発現し、ぎょろりと動いたから、隣でマウの熱弁を聞き流していた将軍は「うわ、キモっ」と率直な感想を述べた。
内心傷付きながらも、マウはとっさに身体を屈めて、地面に指でラインを引いた。
帝国王城の二階と言えば、民家の三階か四階に相当する。
人間が飛び降りれば無事では済まない高さだ。
直立した姿勢で軽やかに着地した少女は、当然ながら人間ではなかった。
「乾き」を司る魔霊…それが彼女だ。
魔霊の中でも変身能力に秀でるエメスは、「人形」という本質を持つが故に、人間に化けるのが上手い。
将軍と瓜二つの容姿をした少女が、猛獣のように犬歯を剥いて嗤った。
「おい、魔術師。おい。それは何のつもりだ? 何度も言ってんだろ。人間、お前じゃあたしには勝てねーよ」
土壌に指を突き立てたまま、マウが軽口を叩いて応じる。
「妹姫に偉そうなこと言っちまったからな。退くに退けないのさ」
だが、その声には多分の強がりと、微かな自信が同居していた。
エメスは、乾きの象徴たる「砂」を自在に操れる強力な魔霊だ。
人間は空を飛べないから、大地に干渉できる魔霊に対して脅威を感じる。
逃げ場がないからだ。
だからマウは、彼女に勝とうとするなら、彼女のテリトリーに踏み込むしかないと考えた。
あえて、こちらからだ。
確かに、とエメスは思った。
確かに…この少年には戦士の素質がある。
何を企んでいるのかは知らないが、自らの命を対価に差し出せる人間はそういない。
しかし女王を認めようとしない彼が気に入らなかったから、エメスは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「教えてやる、魔術師。お前がてめーらの力を魔力と呼ぶように、あたしら魔霊が生まれつき持つ力を…権能と呼ぶ」
その変身能力で容易く人間を欺き、またあらゆる物理攻撃を無効化できるエメスは、純粋な戦闘能力で言えばトップクラスの魔霊だ。
その彼女が言う。
「権能ってのは、使いようで幾らでも応用が利く。権能の発展ってやつだ。いいか…黒騎士やら人面樹どもと一緒くたにすんな。あたしの権能は、ほとんど完成してる」
そう言って彼女は、羽織っていたマントを脱ぎ、片手に掲げ持つ。
すると、マントが端から見る間に風化し、最後には手元に一握りの砂だけが残った。
「くっ…」
気圧されるものを感じて、マウがうめいた。
白日の下に晒された彼女の白い太ももが、マウの視線を囚えて離さなかったからだ。
そして何より、
「……」
…そして何より、隣で二人の遣り取りを眺めている将軍の視線が痛かった。
「…先に行っていいか?」
彼女は、尊敬する師に呼ばれて参上する途中なのだ。
エメスとマウの、下らない争いに付き合っている暇はない。
言うが早いか、さっさと歩き始めた将軍に、ぱっと身を翻したエメスが纏わり付く。
「え、何だよ…ノリが悪いじゃん、将軍〜」
エメスは若い魔霊にありがちな、大の人間嫌いだが、唯一、将軍だけは認めている。
この元帥がひとたび指揮を執れば、帝国軍は常勝無敗だからだ。
女王は最低限の指示は出すものの、自軍の損害をまったく気にしないし、そもそも勝敗に興味がない。
戦争とは、魔霊の権能を誇示するための場だという認識が強いからだ。
女王を批判する訳ではないが、矢面に立つ魔霊の立場からすると、優秀な指揮官と言えるのは、やはりこの人間の少女だ。
エメスが、好んで将軍の姿を取るのは、彼女なりの友好の証である。
将軍とて、別にエメスを嫌っている訳ではない。
自分の容姿を写し取られるのは面白くないが、だからと言って女王の真似をしろなどとは口が裂けても言えないからだ。
「師匠に呼ばれてるんだ。一緒に来るか?」
「げえ、あたし、あいつ苦手なんだよね…」
そう口では言いつつも、エメスはひょこひょこと将軍についていく。
将軍を姫姉妹の騎士とするなら、魔獣の生き残りである骸骨剣士は女王の騎士だ。
人間の中から「英雄」と呼ばれる類いの人物が登場するたびに、エメスは先駆けして帝国の尖兵として立ち塞がる。
だが、負ける。
どういう訳か負ける。
まるで運命を敵に回したかのように、友情とか何かそんなのが奇跡を起こして負ける。ひどい話だ。
その点、あの骸骨剣士は、一定の戦果を上げるのだ。
女王に忠誠を誓っているエメスが、面白くあろう筈もない。
うめき声を上げるエメスに、将軍の片眉が跳ねた。
「…お前、もうちょっとお淑やかになれないか? わたしの姿でそういう…なんだ…わたしの品性が疑われるだろ」
「…あれ?」
言われて、エメスがきょとんとした。
今更ながら気付いたのだ。
「あんた、なんで戦場モードの口調なの?」
彼女は、これでもかと言うほど空気を読まない。
折り悪く追いついてきたマウが、せっかく気付かないふりをしていたのに台無しになりそうだったから、素早く使い魔を発現して天気の話を振った。
「いい天気だね、アプリカ」
肩の上で、アプリカがうんうんと同意した。
ちょうど森を抜けたところでエメスとエンカウントしたから、まるで後を追うように頭上までやって来たどんよりとした雲がよく見えた。
ちらちらとマウを盗み見した将軍が、精一杯の虚勢を張った。
「ふ、深い意味はない…」