第五十一話、帝国今昔
会話らしきものをする二人は、一切目を合わせようとしない。
何やら真面目な話をしているようだが、ちらりと先生を見たマウが、はっとして目線を伏せたから、もう何だか…
「…それで、あなた何をしに来たの?」
妹姫が尋ねると、マウはきょとんとした。
「え、なんで?」
「…? 先生に負けるためにわざわざここに来たの? 違うでしょ?」
マウは、目的を忘れていた。
生命の危機に瀕したためか、それとも忘れた方が楽になれると思っていたからか、おそらく両方だ。
ただ、失われつつある年上の威厳を大切にしたかった。そのことだけは確かだ。
「負けるためって…そんなのやってみなくちゃ分からないよ」
「でも負けたわ」
広義で言えば、魔霊とて女王の子には違いない。
それでも姉姫と妹姫が「王族」と呼ばれ、特別視されるのは、彼女たちが正しく女王の形質を受け継いでいるからだ。
妹姫は、酷薄に笑った。
「あなた、ほんの少しでも先生に勝てると思っていたの? 諦めなければ、きっと、いずれ? 人間らしい物の考え方をするのね…マウ」
魔術師なのに…と囁いた、あどけない少女が、すっと腕を伸ばして、マウの前髪を指先で軽く払った。
マウは、黒髪黒目の少年だ。
片方だけならともかく、両方とも混じり気なしの黒色というのは、実は珍しい。
頬まで降りてきた妹姫のか細い指を、マウは壊れ物でも扱うような手付きで柔らかく包んだ。
「思ってるよ。今でも思ってる。諦めなければ、きっといずれ…」
人間は魔霊と比べて短命だから、自分が何を残せるのかと問い続ける。
生物の究極形が不老不死であることは間違いない。
「だから」人間は死ぬ。
種として全体で見るなら、年老いた細胞が次世代にあとを託すのは、生物が到達した一つの結論だからだ。
だからマウは、おそらく人間よりずっと長く生きるこの姉妹に何かを残してあげたかった。
人生に意味があると言うなら、魔術師の役割は、何かを伝えることだと信じたかったのだ。
ああ、と妹姫は思った。
だから母様は、この人間を連れてきたのだと分かった。
魔術師だから、それだけではない。
まるで黒い蜜のようだと思った。どろりとしていて、それも火のように熱い。
剥がれ落ちた希望を絶望と言うなら、上辺だけ信念で塗り固められた「怒り」を何と言って表現すればいい?
飢えた狼が生肉を目の前にしておあずけを命じられたような目で見詰められて、マウは居心地悪そうに身じろぎした。
「ちょっと、何て目で人を見てるの…」
実のところ妹よりも「力」に乏しい姉姫は、それ故に「食欲」に対して鈍感でいられた。
「おちび、おちび? おい、ちびすけ。こら、正気に戻りなさい。よだれが出てるぞ、はしたない」
姉姫は、妹を「ちび」と呼ぶ。
畏れ多くも帝国の第二王女を、そんなふうに呼ぶのは、世界広しといえど姉だけだ。
マウを凝視していた妹姫が、姉にたしなめられて、はっと我に返った。屈辱の極みだった。
「よだれなんて出てません! わたしは姉様より力があるんだから、こうなるの仕方ないでしょ!」
妹に力で劣るという事実は、姉姫のプライドを著しく損なう問題だった。
「お姉ちゃんに対して何て言い草だ! 生意気なやつめっ」
不毛な争いが始まった。
お互いの頬を引っ張り合う王女らに、その教育係は不干渉を貫くと決めているようだった。
止めなくていいの? とマウが目で問えば、《好きにさせておけ》と気のない様子で鞘から剣を取り出し、こなれた所作で手入れを始める。
丸めた教科書とノートでばしばしと攻防戦を繰り広げる姉妹をよそに、マウが尋ねる。
「大事にしてるんだな。それ、絶対に折れないんだろ?」
剣聖スケルトンの振るう剣が、鉄をも切り裂く魔剣であるという伝説は、大陸で暮らす人々の間でよく知られた逸話だった。
《否定はしない。そういうときもあった》
しかし返ってきたのは、含みのある言葉だった。
長く生きていれば、色々とある。もちろん後ろ暗いことも。
取り立てて話すつもりはなかったが、…円卓に頬杖を突いて、ぼんやりとこちらの手元を眺めている魔術師を見て、少し気が変わった。
《…そうだな、お前には話しておいた方がいいかもしれん》
「ん?」
《儂は、幾度か…魔術師たちと共闘したことがある。卑しくも女王陛下に牙を剥いた魔獣どもを斬るためにだ》
魔霊は、生体を基礎とする「魔獣型」と、精神を基軸とする「魔霊型」の二通りに分かれる。
もっと言えば、魔霊を生体に封じ込めたのが魔獣だ。
霊体が剥き出しの魔霊は、強大な権能を振るえる反面、不安定で、自滅しやすい。
その点、霊体を封入された魔獣は、安定していて力こそ弱いが、ほとんど弱点らしい弱点を持たない。
スケルトンは、典型的な魔獣型だ。
つまり、同胞を討ったと、彼は言うのだ。