第四十五話、発端
つい昨日の出来事である。
その日、王族(小)の勅命で森へと出向き、人面樹の教えのもと隠し芸を習得してきたマウは、もう誰にも無職とは言わせない、大手を振って堂々とランチタイムに突入しようとしていた。
いけないことだと分かっていても、某液状生物の味の素が病み付きになってしまっていた。
帝国王城の食堂は、和平交渉に訪れた他国の大使に歓迎の意を示せるよう、魔霊がひしめく一階の居住区ど真ん中にスペースを設けている。
マウの部屋から、ちょうど中庭を挟んで反対側だ。
魔霊は食事を必要としないので、扉は人間が肩を並べて通れる程度の大きさだ。
これが魔霊の通用口ともなれば、人間が組体操をしながら行進してもなお余りある開放感を満喫できる。
まるで巨人の国だと、帝国の女王に首輪で繋がれて入城した日、マウは思ったものだ。
両腕を鎖と呪符で拘束されていなければ、もう少し感動できたかもしれない。
実に惜しいことをした。
食堂には先客が居た。
金髪碧眼の少女で、立派なこしらえの黒鎧を身に付けている。
普段はその上から羽織っている帝国紋入りのマントを、今は畳んで椅子の背に引っ掛けていたため、具足に覆われていない白い太ももと二の腕が露出していた。
彼女は「将軍」という。
その名の通り、魔霊を指揮する立場にある少女であり、国際的には元帥の位階を持つ。
生後間もなく女王に拾われ育てられたという、人間の女の子だ。
口から物を食べないでいるとやがて餓死してしまう、帝国では少数派に属する彼女と、マウは食堂で鉢合わせることが多い。
マウが、将軍から少し離れた席に座ったのは、特別に他意あってのことではない。
彼女が読書中だったからだ。
随分と熱心な様子である。
声を掛けるのも悪いかと思い、マウはカウンターの向こう、厨房へと目を向ける。
そこでは、漆黒の戦鬼が鍋を火に掛けていた。
ここ数年で帝国の代名詞と化した、魔霊兵士、黒騎士だ。
魔霊としては珍しい、集団戦闘を得意とする彼らは、平時においては城内の細々とした雑事を任せられている。
手先の器用さは個体によってまちまちなので、調理班の他に清掃班、改装班、お庭番とチームごとに分かれて内部でローテーションを組んでいるらしい。
料理担当の黒騎士が、マウの視線に目で頷く。
食堂のメニューは日替わりランチ一択なので、わざわざ声に出して注文する必要はない。
マウと黒騎士が目と目で通じ合っていると、おもむろに将軍が席を立った。
「….…」
彼女は本を広げたまま、無言で歩み寄ってくると、そのままマウと同じテーブルの対面席に着席した。
「……」
マウは、厨房の黒騎士に目線で問う。お前の上司は何がしたいのかと。
将軍は、黒騎士たちを召喚し使役する権能を女王から授かっている。
だから実質、黒騎士たちは彼女の保護者のようなものだった。
蝶よ花よと将軍の成長を見守ってきた黒騎士団の一員は、すっかり大きくなった(……)彼女の奇行の是非を問われて、ふと材料籠からジャガイモを手に取った。
人面樹から強奪してきたそれは、形といい、大きさといい、悔しいが一級品と認めざるを得ない…つまりはマウの問い掛けを無視した。
このやろう…マウは内心で黒騎士を罵る。
渦中に居る少女は、まるで朗読でもするかのように本を目線の高さに掲げ、ほうほうとわざとらしく感嘆の声を上げる。
「ふむふむ。ほほう…よもやこのような…」
「……」
マウは、三たび黒騎士に視線を振る。お前らが育てたんだから、お前らが何とかしろという、明確な意思を乗せた視線だ。
マウに背を向けた黒騎士が、肩越しにちらりと振り返り、手にした包丁で、断末魔の叫び声を上げるジャガイモを無慈悲にもすとんと両断した。
調理の工程上、先に芽を取るべきところをだ。
次はお前だと言われた気がした。
これはつまり、俺はお前を無視するが、お前が彼女を無視するのは許さないという意思表示に他ならなかった。
普段は謙虚で心穏やかな黒騎士たちだが、こと将軍が絡んでくると豹変する。完全に親ばかの心境に到達していた。
マウは溜息を吐いた。そういうことなら仕方ない…
彼はまぶたを閉じて、底辺まで落ち込んだ気分を一段、二段と持ち上げる。
テキストに忠実なマウの魔力は、幻術を基とした理屈で成り立っている。
使い魔が術者に寄り添い支えるように、魔力の支柱は理論であり、確固たる意志でなければならない。
相手の心理を衝き手玉に取る魔術師が、それなのに自分の心さえままならないのは何故だ。
マウは、微笑もうとして失敗した。
帝国で暮らし始めてもう三週間になるのに、未だに彼女とどう接するべきか決めかねていたからだ。
魔術師流のコミュニケーションは駄目だと言うし…
まずは無難に尋ねてみた。
「…何、読んでるの?」
すると彼女は即座に反応した。
「ん、何だ? 気になるのか?」
白々しくとぼける将軍に、マウは早くも面倒くさくなってくる。
面倒くさい面倒くさいと口では言いつつも厄介ごとを率先して引き受けてしまう面がマウにはある。
このときもそうだ。
彼は、見るからにそわそわし始めた将軍を目にして、嫌な予感が膨れ上がるのを感じた。
「まあね」と答えたのは、ほとんど条件反射のようなものだった。
その場しのぎで返事をすると、ろくなことにならないと、十四歳のマウはそろそろ学習してもいい筈だった。
魔術師は子供の頃に学校で、自分たちこそが優良人種なのだと教えられる。
魔術師から誇りを取ったら、無法者しか残らないからだ。
魔力を持たない人間は哀れな存在だと、傲慢な魔術師たちは信じて疑わない。
それなのに、「え〜どうしようかな〜」とそれまで読んでいた本を胸元に引き寄せて隠す将軍から目を離せずにいた。
人間という檻からは逃れられないのだと言われているようだった。
人間は誰しもが、いつか自分の中に眠る怪物と向き合わなくてはならない。
思春期というやつだ。
「いいから見してみ。ほれ」
「え〜…でもお…」
散々じらしてから、将軍は「これ!」と手にした本を突き出した。
それから、差し出された本をぱらぱらと流し読みするマウに、彼女はもじもじと身をよじって、
「実はぁ、この度ぃ…剣を新調しようと思います!」
きっぱりと告げた将軍が、「きゃっ」と恥ずかしそうに顔を両手で覆った。