第四十三話、深夜の攻防
互いまでの距離が三メートルを切った。
魔術師は動かない。片膝を付き、やや前のめりに倒した上半身を片腕で支えている。
顔を伏せたのは、目線を隠すためか。それとも、他に何か理由があるのか…
彼の狙いが何であろうと、レヴィアタンは一向に構わない。
最強の魔霊と称される「伯爵」にすら、彼女は負けない自信がある。
それほどまでに、生命と水の関係は深い。
レヴィアタンが城内の監視を任されているのは、大気中の水分と同化した彼女が生物に対して絶対的な優位に立てるからだ。
エメスとの戦いは見せて貰った。
不必要な接近と離脱を繰り返す彼の戦い方は、魔術師のそれとはかけ離れている。
遥か昔、魔術師が「魔法使い」と呼ばれていた時代に暗躍した、強制的に魔力を開発された人間の兵士と酷似していると感じた。
二メートル。互いに手を伸ばせば指先が触れる距離だ。
マウは動かない。
《どうした、射程距離内だぞ?》
レヴィアタンは親切にも教えてあげた。
近ければ近いほど、彼の魔力は真価を発揮する筈だった。
もちろん望ましいのはゼロ距離射撃なのだろうが、広い視野の確保は魔術師の生命線でもある。
その狭間を行き来するマウのスタイルは、魔術師として褒められたものではない。
だが…
レヴィアタンは微かに目を見張った。
この、肌を刺すような圧迫感はどうだ。
質量を持たない筈の魔力が、まるで彼の小柄な身体から立ち昇っているかのようだ。
にわかに緊張を帯びた空気にも怯まず、レヴィアタンは悠々と歩を進める。
一メートル。
振り上げたレヴィアタンの手が、したたかにマウの頬を打った。
彼は、まったくの無抵抗だった。
もしも振り下ろしたのが拳だったら、それで終わっていた。
だが、実際にマウの頬を打ったのは、鋭く振り抜かれた平手だった。
ククク…
切れた唇の端から滴る血を、彼は拭いもせず、低く嗤った。
「ご丁寧にも忠告してやったのによ」
僕の勝ちだ。
そう囁いたマウの姿が忽然と消失した。
影踏み! だが…
脇を通り抜けざま、刀印を突き付けてくるマウを、レヴィアタンは超人的な反応速度で迎撃する。
彼女の手刀がマウを貫くより早く、肩をぽんと叩かれた。
軽やかな身のこなしで飛び上がったマウが、レヴィアタンの肩を支点に彼女を飛び越えていた。
《二人…いや三人だと!?》
レヴィアタンは今度こそ驚愕した。
マウは、影踏みをほぼ完璧に制御できる。
レヴィアタンには見えないが、彼の肩にはいつしか使い魔が発現していた。
マウが、使い魔を発現させるときに執拗なまでにアプリカの名を呼ぶのは、そうしなければ喚べないのだと周囲に錯覚させるためだ。
マウの魔力は、アプリカを発現することで爆発的に出力が上昇する。
今、レヴィアタンが目にしている現象は、魔力のオーバーフローだった。
暴走した魔力は破綻へと向かって崩壊するのが常だが、発現したアプリカがそれを許さない。
結果として、影踏みの作用も手伝い、魔力は「術者が複数人いる」「だから破綻はしていない」という理屈に飛び付いた。
本来なら実現不可能で説得力が皆無の理論に魔力を誘導する。
一人では出来ないことも、二人なら、三人なら?
アプリカという非常識な使い魔に支えられたマウだから可能な、これが彼の奥の手だった。
完全に虚を突かれたレヴィアタンが「しまった」と思ったとき、背後のマウが、またもや煙のように姿を消した。
「でも忠告はお互い様だね」
二度とない好機をあえて見送った理由を、肩越しにマウが明かした。
人間が、だ。
どこまでも対等であろうとする少年に、レヴィアタンの心が震えた。
《面白い! 面白いぞ、人間…いや魔術師! ユーティと言ったな!》
魔霊が真に願うのは、人間の手による敗北だ。
侮り、踏み付けにした人間が己に依って立ち上がり、強大な魔霊に屈さず立ち向かうというなら、それは「心の力」の具現たる彼女たちの実在を証左するようなものだ。
「やめてよね、その名前で呼ぶの! 僕はマウだ!」
着地して再び駆け出したマウの背を、レヴィアタンが追う。
前言を撤回した彼女が、鞭状に変化させた髪を無数に撃ち出す。
きんっ…と新たに展開された魔眼が、背後から迫るそれらを捉えてマウに軌道を正確に伝えた。
戦闘時の彼に死角はない。
後ろに目があるような回避運動を見せるマウに、レヴィアタンは歓喜した。
しっかりと避け切ってから、わざわざ振り向いた彼の目が、夜闇に爛々と輝く魔眼が、「ついて来い」と雄弁に告げていたからだ。
戦いの中でしか生きられない人間だと直感した。
魔霊と同じだ。
「どうした? その程度か、レヴィアタン! どうした、どうした…海神の名が泣くぜ?」
魔術師とはいえど人間だ。
全力を出した魔霊に敵う筈がない。
それでも、マウは挑発的な物言いを改めようとしない。
口で言っても聞かない魔術師たちを力尽くで黙らせている内に、すっかり歪んでしまっていた。
家族と呼べるのは、もうアプリカだけだった。
術者と使い魔は一心同体だから、失うものは何もない。
守るべきものが自分の中にしかないのなら、どこまでも強気になれた。
それは弱さだ。
だから、傲然と立ち塞がる砂の魔神を正面に認めても、嗤うしかない。
「居たなあ、エメス!」
この場で土下座しても良い筈だった。
だが、それは何かが「違う」と感じた。
地を削る勢いで立ち止まり、背後のレヴィアタン、正面のエメスに両手で刀印を向けるマウに、こういうシチュエーションが大好物の魔霊たちは灼熱のような興奮を覚える。
「ちょっと見ない間にあたし好みに育ってんじゃねえか、人間!」
まるでプロポーズのように吠えたエメスが、両腕を砂へと変じ緩慢な動作で迫ってくる。
アプリカを肩に乗せたマウが、よく通る声で叫んだ。
「来いよ! 二人掛かりでも構わないぜ! それで勝てるんならな」
…
…だから、正直、真夜中だとか、そういうことは頭から飛んでいたのだと、マウは妹姫に釈明した。
三人揃って廊下に正座させられていた。
「そうなの。それで…ここはどこ? 言ってみて」
「…廊下です」
「もっと具体的に教えて? どこの廊下なの?」
クソ真夜中に寝室の真ん前でぎゃあぎゃあと騒がれた妹姫の口調は、ひたすら優しい。
「妹姫の…部屋の前です」
「それ、わたしのことよね?」
「…そうです」
マウは、昨日と今日で三回も妹姫(七歳)に怒られている。
こんな筈ではなかったと、幼い頃のマウが現状を知ったら嘆くだろう。
だが、十四歳になったマウとて、過去の自分に言ってやりたいことがある。
お前、もうちょっとまともな人生を送れなかったのかと。
そしてこうも言えるだろう、少なくとも今の自分は一人ではないと。
「…姫様、あたしは巻き込まれただけなんス」
だが、早くも内部分裂の狼煙は上がっていた。
「レヴィだって、本当のところは分からないじゃないスか。こいつの証言なんて」
エメスは、親友のレヴィアタンを「レヴィ」と呼ぶ。
友人を庇おうという、麗しい友情の発露だ。
思うに、そこに保身がなければ最高だった。
売られたマウは、内心で嘲笑う。
(これだから叱られ慣れてないやつは…)
彼女は何も分かっていない。
責任の所在など、もはや妹姫にとっては問題ですらないのだ。
瞑目してエメスの言い分を聞いていた妹姫は、果たしてゆっくりとまぶたを開けた。
「…で?」
何が言いたいのかさっぱり分からないと、妹姫は一文字で簡潔に告げた。
「…え? いや、だから…」
察しの悪いエメスに、妹姫は優しく教えてあげる。
「あのね、わたしは今、あなたたち三人を叱ってるの。ここまではいい?」
辛うじて頷くエメスに、よく出来ましたと微笑む。
「じゃあ、わたしがこうして真夜中に廊下に立ってるのは誰の所為なの? あなたが言うように、マウが全部悪いの? 本当は全然悪くないあなたとリブを、わたしは性格が悪いから間違えて怒ってるの? どうなの? 黙ってちゃ分からないわ、ねえエメス…」
笑顔で追い詰めてくる妹姫は背筋が震えるほど怖いのに、可愛いと思ってしまうのは何故だ。
マウは、そればかり考えている。