第四十二話、レヴィアタン
アプリカとの初めての共同作業で、マウはクラスだけでなく寮も追い出された。
当時は戸惑うばかりで言われるがままにするしかなかったが、今なら上から学校に圧力が掛かったのだと分かる。
使い魔は術者の潜在能力を引き出すための存在だから、子供の握力では決して砕けない強度のガラス球を粉々にするほどの物理的干渉を僅か八歳で成し遂げたというなら、その少年の未来は希代の天才魔術師でなければならなかった。
魔術師の社会では魔力に秀でた人物が実権を握るから、権力者たちは今ある地位を失うまいと優れた人材を独占したがる。
そして現在。
一時は将来を嘱望された少年魔術師が、今、遠く離れた異国の地で人生に落第しようとしていた。
《そうか、狙いは小っこい方か》
「狙いって何だよ!」
廊下で騒いで将軍やら姫姉妹が出て来たら事態は泥沼だ。
それだけは避けねばならない。
階段方向へ駆け出したマウに、レヴィアタンは躊躇いなく人間失格の烙印を押した。
言っても無駄だと分かっていても、沈黙が肯定を意味するようで嫌だった。
霧の魔霊は、いっそ清々しいほど人の話を聞かない。
まるで魔女だ。海神…
《このことは責任を持って報告させて貰う。あとたったの十年が待てなかったのだと。いや、だからこそか…》
「生々しいだろ! 本気でやめて!?」
本気で逃げる魔術師を捕えることが出来るのは、同じ魔術師だけだ。
けれど今、マウの尊厳が風前の灯火だったから、彼女を野放しにする訳には行かなかった。
マウの人生は、いつもそんな感じだ。
逃げて失うものと戦って得られるものを秤に掛けたなら、決まって天秤は後者に傾くかのようだった。
とぷんと大気に潜水したレヴィアタンが、再び夜霧と化してマウに迫る。
水で構成される彼女を呪縛できる自信はなかった。
行く手を遮る水柱に、マウは舌打ちして飛び退いた。
じりじりと後退しながら、彼は思案する。
魔霊の権能はどの程度まで有効で、限界はどこにあるのかと。
仮に一切の制約がないなら、勝ち目はなかった。
血液の大部分は水だからだ。
警戒を露わにするマウを、その浅はかさを、レヴィアタンは嘲笑う。
《このわたしが、人間如きに手の内を明かすとでも思っているのか?》
水柱を割って、中から人影が現れる。
やはり髪の長い、目も口も鼻もない女性の輪郭だった。
《近距離戦が得意なのだろう? まるで魔術師の出来損ないだな…何と言ったか…そう、確か***だ》
彼女が何と言ったのか、マウには分からなかった。
魔術師は物言わぬ民と交信できるが、固有名詞の類いは互いに共通の認識を持っていなければ伝わらない。
だが、彼女が何を言いたいのかは分かった。
手札を伏せたまま、格闘戦でマウを叩きのめすと言っているのだ。
魔霊は、いつの時代も人間を弱小と侮る。
その油断が、魔霊の最大の弱点だったとしてもだ、明日があると信じているから人間は前へ進める。
絶望を享受したなら、それは「諦め」だ。
女王は世界征服を謳っているが、本心ではない。
魔霊は効率的に敗北し、効果的に勝利するべきなのだ。
レヴィアタンは、女王を親とも思っていないが、女王が弱体化すれば魔霊の権能も衰退する。
魔霊の力は相対的で、実は刻一刻と変動していることを、人間たちは知らない。
無造作に歩み寄ってくるレヴィアタンは隙だらけで、格闘技の心得があるようには見えない。
対するマウも武術を習った経験はない。
しかし彼には、誰よりも精密な魔力がある。
自身の運動を客観的かつ機械的にコントロールできるマウは、それ故にクラスメイトから「あんた変質者のスキルばっかり上げて将来どうすんの?」と真顔で訊かれたことさえある。
無警戒に距離を詰めるレヴィアタンに、彼は何を思ったのか、その場で片膝を付いた。
《…降伏か?》
「そう思っているなら、君の負けだ」
上空で鬼火たちが見守る中、顔を伏せたマウの双眸だけが不気味に煌々としていた。
レヴィアタンが獰猛に笑う。
《面白い…》
初めて会話が成立した。
当たり前のことなのに嬉しく感じて、マウは自分がどこへ向かおうとしているのか不安になる。
「…おれ、真夜中に一体何をやってるんだろう…」
ふと、そう思った。