第四十話、見えない明日
北に世界最大の湖、南に前人未到の霊峰、見渡す限りを秘境の樹海で覆われた帝都は、天然の要塞だ。
城の屋上から眺めた風景は、まさしく難攻不落といったところか。
行灯に篝火まで幅広く活躍する鬼火が、あちこちで青白く瞬き、夜の帳にささやかな抵抗を続けていた。
夜風を孕んだ将軍のマントが、大きく翻った。
ここ帝国領内は、気候の変動が激しい。
魔獣はともかくとして、トップクラスの魔霊ともなれば、その存在だけで自然に影響を及ぼしてしまうからだ。
将軍が身に付けている革鎧は特別製で、体温を調整し体力の消耗を軽減してくれる。
市場に出せば値が付かないほどの価値がある。
マウが着ている半袖の寝間着とは雲泥の差だ。
つまり何を言いたいのかというと、
「…寒いっす」
眠気が吹き飛んだ。
しかし前述にある通り、摩訶の黒鎧に身を包んでいる将軍は、多少の肌寒さを感じる程度だ。
彼女はか細い腕をすっと伸ばして、樹海の向こうを指差した。
「森を抜けた先にあるのが死海。海って呼ばれてるけど、本当は湖なんだと」
「はあ…」
「あっちにある山は頂上ら辺でいつも雪が降ってる。不思議」
「…標高が高いからだよ。気圧が低いと空気が散って、気温を保てなくなるんだ」
憐みの目で見られた。
「そうか、お前の住んでた村ではきっとそうなんだな…」
「何この人。ナチュラルにおれを見下してくるんですけど」
マウは手櫛で寝癖を撫で付けながら、視線を逸らした。
時代が下るにつれて、いつしか魔術師が集団を形成し独自の文化を築きつつあることは知られていない。
情報の流通量と人口密度は比例するから、歴史から姿を消した魔術師が山村に隠れ住んでいるという考え方はあながち間違ってはいなかった。
マウに背を向けていた将軍が、ゆっくりと振り返った。
彼女の秀麗な横顔を、鬼火が照らしていた。
将軍は、何度でもマウに問う。
お前はそれでいいのかと。
「人間どもの脆弱な戦力では、魔霊には決して勝てんぞ」
「…どうかな」
マウが明言を避けたのは、戦争にあまり詳しくなかったからだ。
ただ、ひとつだけはっきりと言えることがあった。
「でも、魔霊には欲がない。あっても少ない。欲望は、生きるための力だ。魔霊にはそれがない…」
王族の食欲を満たすためだけに戦う魔霊の、歪さがそこにある気がした。
「……」
将軍は否定しなかった。
彼女も同意見だったからだ。
瞑目した彼女は、腕を組み…二度三度と頷いてから、マウの肩に手を置いた。
「術士よ。お前はこれから自宅警備員として働くのだ。どうだ?」
「どうもこうも」
聞こえはいいけど、それ実質無職じゃね? と。
しかし将軍の決意は固かった。
彼女は、もしもこの少年が死ぬときは、自分の手に掛かって死ぬべきだと思い詰めていた。
何故なら彼は自分と同じ人間で、魔霊たちは彼を歓迎しているようだけれど、それでも…
(…わたしは…!)
…同じ人間である彼に魔霊を認めて欲しいという願いを捨て切れない。
「お前が自分勝手に振る舞うのは、責任感がないからだ。やはり人間、無職ではいかん」
「無職とか言うな」
女王直属の魔術師なのに、里帰りする女王に置いて行かれたマウが、今はたまたま仕事がないだけだと吠えた。
将軍がマウの両肩を揺さぶり、彼の敏感な部分をちくちくと刺激する。
「わたしは常日頃から、城の夜間警備に不満かあった。お前がやるんだ。まずは飛び出せ無職を」
「だから無職とか言うな」
けれどマウの心は揺れていた。
魔霊は夜目がきかない。これは自分にしか出来ない、自分だからこそ出来る仕事だ。
「…べっ、べつに仕事なんて欲しくないんだからね!」
だからそう、魔力の訓練にちょうどいいからと、将軍がどうしてもと言うから、仕方なく引き受けたのだ。