第三十四話、願い
混沌の坩堝だった。
将軍が恥ずかしがっていたのは最初の内だけで、十八番の軍歌メドレーが二曲目に差し掛かった頃には頭の悪そうなポーズでウィンクなどやらかしていたし、即席のステージと化した踊り場で、熱気にあてられた鬼火が頭上を無数に飛び交っていた。
魔霊の大半は夜目がきかないから、それでは困ると黒騎士たちが行灯を片手に鬼火を追いかけ回している。
バックダンサーの黒騎士たちが抜けた穴を、普段は犬猿の仲の人面樹たちが埋めたから、それはホラー以外の何物でもなかったけど、きっと感動的な光景に違いなかった。
だから、何かと魔霊のリーダーを務めたがる、それでいて女王の騎獣には頭が上がらないエメスのテンションが急上昇したのも仕方のないことだった。
ステージに躍り上がったエメスが将軍と夢のデュエットを演出したものだから、生理的に彼女を受け付けない人面樹は恥も外聞も捨ててレヴィアタンに助けを求めた。
彼らが如何に誇りを重んじているかを知っていたから、怠け癖のあるレヴィアタンもこのときばかりは助力を惜しまなかった。
人面樹たちを潤した霧雨は、間違ってもエメスに被害を及ぼさないよう範囲が限定されていたから、本能的に水気を嫌った鬼火がパーティー会場を乱舞した。
本能的に火種を恐れるのは、氷雪の魔霊も一緒だ。
肌も髪も雪のよう、真っ赤な瞳が特徴的な童女は、どさくさに紛れて愛するスライムの胸に飛び込んだ。
どこで育て方を間違ったのか、天敵とさえ言える魔霊に血も凍るような情熱を向けられて、しかし魔霊の長老は一歩も退かない。己の肉体が凶器であり、周囲に居るのは護るべきものだと識っていたからだ。
瞬時に凍結した古い友人が情に篤い漢だと識っていたから、剣聖と謳われる老騎士の虚ろな眼窩を熱くさせたのは、きっと友情という名の魔法に違いなかった。
「おい、骨っ子」
それなのに、無礼な教え子に水を差されて、骸骨剣士の最後の生き残りは不機嫌になる。
最近ますます女王に似てきた、姉姫だ。
嫌々ながら話し掛けているのだと顔を背けている癖に、心細そうに襤褸を掴む仕草は幼い頃と変わりない。
振り払うことはいつでも出来るから、そのままにしておいた。
どうせ魔術師のことでも訊きたいのだろう。
それならそうと、さっさと尋ねに来ればいいものを、やれ喋れないから非効率だのと屁理屈をこねて賢しいふりをする。
スケルトンと呼ばれるものは、もう自分一人になってしまった、襤褸を纏った骸骨剣士は、それでもまだ手の掛かる弟子の多いこと、呵呵と下顎を打ち鳴らした。
もはや己の一部と言ってもいい聖剣あるいは魔剣の柄に掛けた手をゆるりと上げて、不出来な弟子を幸か不幸か上官に持つ幼い魔霊を招き寄せる。
ちなみに、その不出来な弟子は今、階段の踊り場で頭の悪そうなポーズを決めている。
きゃはっ♪とか言っている上司に疑問は持たないのだろうか、持たないのだろう黒騎士から用紙と筆を受け取り、慣れた手付きでさらさらと一筆したためた。
魔術師に頼れば早いのだが、そういう訳にも行くまい。
せめて偏屈な方の弟子が、魔術師を通せない相談だから連れて来なかったと信じたい。
『これは結界だ。今もそう呼ばれているかどうかは知らないが、魔術師が魔法を敷くときに使う』
紙面を見て、姉姫が不満げに口を尖らせた。
用件を言い当てられて悔しいのだろう。
「魔力とは違う?」
『たぶん』
「たぶんとは何です。どっちなんですか」
そんなことを言われても困る。
別に自分は魔術師ではないのだから。
魔力の一種には違いないだろうが、それは魔術師たちの観点であり、自分たちからすれば別物なのではないか?
視点によって在り方を変える、魔力とはそういうものだ。
幻術とも取れるし、超常の力とも取れる。あるいは、そのどちらでもない。
考えるだけ無駄だ。
『分からぬ。ただ、魔術師は自らの結界をいよいよとなるまで使わない。何故か?』
「…反動が大きいから?」
『さて。それは結界の質による。これは、そういうものではないように思う』
「…千差万別なのですね?」
老剣士は頷いた。
結界とは何なのか。他者に見せるのを極端に嫌うのは何故なのか…
大まかな予想は付いていたが、この場で言うことではないと思った。
もしも自分の予想が当たっていたとしたら、あまりに不憫ではないか。
要は、歓迎会をして欲しかったということなのだから。