第三十三話、賢者の時間
お風呂を上がった三人が目にした光景は、壮絶なものだった。
まず目を引いたのは、通路一面に並んだテーブルと椅子だ。
その間を縫って黒騎士たちが忙しなく動き回り、壁面を綺麗に飾り付けていた。
黒騎士以外の魔霊たちも、それを手伝っていた。
歴史の節目ふしめで激戦の地となった王城の正面通路が、謎のパーティー会場と化していた。
会場を練り歩いているマウを見付けるのは容易だった。
何故なら彼は、「やっはっは。やーっはっは」と妙に格調高い笑い声を響かせて、黒騎士たちと次々に握手を交わしていたからだ。
「ありがとう。ありがとう」
その度に力強く頷くマウの肩には、当然のようにアプリカがとまっている。
「…何だこれ」
異常としか表現できない状況に直面しても、妹姫のコメントは冷静だった。
その声に我に返った将軍が姉姫を見ると、いつも瞳の奥で冷徹な知謀を張り巡らしている第一王女が唖然としていた。
「…な、何がどうなってこうなるの? まさか魔力? いや、でも…」
会場にはエメスも居た。
将軍は彼女に歩み寄り、事情を訊くことにした。
「エメス! これは一体…」
「あ、将軍。いや、あたしもよく分かんない。何か黒騎士が部屋に来て、とにかく集まってくれって。逆に訊きたいよ、何なの、これ?」
彼女も事情を知らなかった。
(…黒騎士が?)
ならば直接、問い質した方が早いだろうか…と周囲を見渡していると、朗らかな笑顔でマウが接近してきた。
「今晩は、お嬢さん」
「おじょ…?」
一度は女王に刃向かったと聞いて、彼に含むところがあった将軍が気圧されていた。
戸惑う将軍に頓着せず、マウは優雅な身のこなしで彼女の手を取り上下に揺すった。
「本日は僕のためにわざわざお越し頂き、誠にありがとうございます」
「はあ…」
追いかけてきた姫姉妹にも同様の挨拶を述べるマウ。
「あ、ども」
「悪い気はしないわね」
二人は如才なく応じた。
危うくスルーし掛けた将軍は、はっとしてマウの肩を掴んだ。
「ど、どうしたお前! 頭でも打ったんじゃないか?」
「やっはっは。やーっはっは」
「聞け!」
耳元で怒鳴ると、彼は怒った様子もなくこちらを見詰めた。
「な、なんだ?」
今更ながらお風呂上がりだったことを思い出して、将軍は気恥ずかしくなった。
普段のマウなら、彼女の上気した肌や水気を帯びてしっとりとした髪を見て何か思うところがあっただろう。
しかし今のマウは違った。
彼は胸に手を当てて優雅に身を折ると、将軍にそっと片手を差し伸べた。
「失礼、美しいお嬢さん。よろしければ、僕にサイレン嬢をお貸し願えますか?」
何だか悔しくなって、将軍は反射的に断った。
「だ、駄目だ! なんか、駄目だ。今のお前は、なんかおかしい」
サイレン入りの懐中時計を守るように剣帯に手をやると、指が空を切った。
「ありがとう。すぐにお返しします。ええ、すぐに」
いつの間にか抜き取られていた。
「何だと!?」
心底びっくりした将軍が腰に目をやると、確かにない。
姉姫の予想は正しかった。
これは魔力だ。
魔力とは曖昧模糊としたものであり、これという決まった形を持たない。
それ故、極限まで突き詰めた魔力は、個人によって効能が異なる。
その究極の魔力を、一部の高等魔術師は「固有結界」と呼ぶ。
今、正面通路を支配しているのは、マウの固有結界だ。
この空間内に立ち入ったものは、須らく戦意を喪失し、手と手を取り合い明日を歌おうという気分になってしまう。
それがマウの魔力の最終形態だった。
本来なら術者は結界の適用外とされるのが普通なのだが、アプリカを基軸としているため、むしろ一番影響を受けているのはマウだった。
頭が茹だった主人に代わり、アプリカが命名した、このマウ式固有結界。
名を…「賢者タイム」という。
この結界内において術者のマウは、煩悩から解き放たれるついでに、魔力を使えば体力を消費するという当たり前の制約からも解放される。
否、これほど大規模な魔力を持続させるとすれば、そのような制約は無視して当然なのだ。
畢竟、現在のマウは望むがままに魔力を振るえる、それでいて紳士というハイパーな状態にあった。
「やっはっは。やーっはっは」
ハイパーに仕上がったマウが、影を踏んで階段の踊り場に姿を現した。
「消えた!?」
「いや、あそこだ!」
驚愕する将軍に、早くも気持ちがふわふわしてきた姉姫が、ノリノリで踊り場を指差した。
注目を一身に集めたマウは一礼し、将軍の懐中時計をワイングラスのように掲げた。
「えー、皆様。本日は僕のためにこのような場を設けて頂き、誠に、誠にありがとうございます」
その声はサイレンによって増幅され、通路の隅々まで行き届いた。
マウの次に結界に囚われた黒騎士たちが一斉にクラッカーを鳴らした。
脇で控えていた黒騎士がくす玉を割り、「ようこそ帝国へ」と書かれた垂れ幕が衆目に晒された。
歓迎会だった。
完膚なきまでに歓迎会だった。
マウのスピーチが続く。
「宴もたけなわ、堅苦しい挨拶はこれまでと致しまして、お待ちかねのカラオケ大会に移りたいと存じます」
嫌な予感がした。
「トップバッターは、もちろんこの人、勇名轟く帝国の戦姫、今夜わたしは歌姫になりたい、我らが元帥閣下であります!」
「うええ? わ、わたしか?」
拍手喝采と、視界を埋め尽くす紙吹雪。
楽器に照明にとフル装備の黒騎士たち。
…とても断れる雰囲気ではなかったという。