第三十二話、目覚めのとき
何かが割れる音がした。
何事かとクラスメイトたちが一斉にこちらを見た。
使い魔の力を借りて、ガラスの球を動かすという内容の授業中だった。
空中でひしゃげた教材がゴトリと落ちて、辺りに破片を撒き散らした。
大人が思っているよりもずっと、子供は大人の視線に敏感だ。
だから先生が、何か異常なものを見るような目をしているのが分かった。
「この使い魔は…」
違う。おかしいのは僕だ。
とっさにそう思った。
ガラスの球を動かせばいいと言われて、何で僕は壊すのが一番「簡単」だと思ったんだろう。
こんなことじゃいけない。
優しい人になるんだと、子供らしい前向きさで明日を誓った…
その翌日、先生によそのクラスへ行けと教室を追い出された。
思えば、これがケチの付き始め。
新しいクラスのお友達たちは、僕をいじめて喜ぶ悪魔のような魔女たちでした。
そして十四歳になったマウは、何の因果か帝国で魔術師をやっている。
地に伏した黒騎士たちを踏まないよう、ふわりと着地した。
アプリカを発現した状態のマウは、短時間なら浮遊できる。
立っていることも億劫で、がくりと片膝を付いた。呼吸が荒い。
がちがちと具足を鳴らしてもがく黒騎士たちに、マウが駄々をこねる子供を叱るように言う。
「無駄…だよ。女王がコストを優先したから、君たちは超人じゃない。アプリカの呪縛を、君たちは破れない」
だが、マウは知らない。
どんな魔霊が欲しいと女王に問われて、戦争は質より量ですと答えたのは、幼き日の将軍なのだ。
彼女は帝国に戦術という概念を齎した、まさしく戦姫と呼ばれるに相応しい存在だった。
…鋼が擦れ合う音がした。
集団戦闘の肝は戦う前に勝つことであると、将軍に骨の髄まで教育された黒騎士の第二大隊が、疲弊したマウを嘲笑うかのように姿を現していた。
マウは嗤った。彼我の戦力差は絶望的だった。
彼が己を叱咤して立ち上がった頃、帝国が誇る三人の美姫らは湯船に浸かってのほほんとしていた。
「いやあ、今日は暑ちかったねえ」
髪が湯船に浸からないよう編み上げた姉姫が、誰にともなく言うと、隣でふにゃふにゃになっている将軍が答えた。
「そっすね。本当なら絶好の訓練日和だったんですけど、あの馬鹿の所為でうやむやになってしまいました…」
無器用な彼女に代わって、妹姫が将軍の髪を編んであげていた。
「たまの休みくらい、ゆっくりしなさいよ。あの子も、そのつもりであなたにちょっかいを出してるんじゃない?」
「いや、あれは好きな子にイタズラする心理じゃね?」
影のスポンサーである姉姫が、マウのフォローをした。
「好きな子に…えっ!?」
過剰な反応をする将軍に、ああしまったと姉姫が付け加える。
「ああ、いや、友達になりたいって意味ね」
不老長寿の王族である彼女は、恋愛感情というものを知らない。
この幼馴染みにも平凡な幸せを掴む権利はある筈だと思っていたから、二人の仲を応援したいという気持ちはあるが、いい加減なことは言えなかった。
「むむむ…」と難しい顔でうなった将軍が、口まで湯船に浸かってぶくぶくと気泡を吐いた。
はったりではあったが、一時は本気で剣を向けたことを気にしているのだろうと察した姉姫が、殊更に明るい声で彼女を励ました。
「だいじょぶ、だいじょぶ。マウはねえ、たぶんどこにも行かないよ。他に行き場がないんだな、あれはきっと」
「?」と将軍が姉姫を見る。
頭の回転が早い姉姫は、会話していてときどき相手を置き去りにしてしまうことがある。
だが、それすら姉姫には計算尽くだ。
彼女はニヒルに笑い、こう言った。
「愛に飢えてるってことさ」
この姉の機転には、妹姫も一目を置いている。
「姉様。先生がこんなことを仰っていたのですが…」
彼女は、人間であるマウが帝国で暮らしていることを、ずっと不思議に思っていたのだ。
何故なら魔術師である彼は、やろうと思えばいつでもここから逃げられる。
それをしないのは何故なのか?
女王を嫌っているなら尚更だ。
妹姫の話を聞いて、姉姫は内心で苦渋を噛み締めた。
(…あの骨っ子め、余計な入れ知恵を…)
これ以上、将軍を刺激するのは避けたい。
同じ人間だからこそ、マウの言葉や思想に将軍は反発するし、そうあるべきと彼女は己を律している面がある。
しかし考えようによっては好機かもしれない。
マウの話を聞いていて、よく分かった。
彼は、この城に連れて来られた経緯を隠そうとはしているものの、女王に牙を剥いたこと自体は隠す気がないのだ。
確信を持てるまでは秘しておきたかったが…姉姫は決断した。
ついでに妹姫を抱き寄せようとしたが、逃げられた。
「……」
無言の拒絶だった。
だから姉姫は、計算通りに将軍の華奢な身体を抱き締めた。
「…たぶん、マウは母様に弱味を握られてるんだよ。口では嫌ってるけど、本当に憎んでる様子はないから、約束ってのがそうなのかも」
おそらく性格的なものだ。
「…これは、わたしの勝手な憶測だけど、そのときにマウは一度、母様と敵対してる。それで、負けたんだ」
腕の中で身じろぎする将軍を、姉姫は落ち着くようにと背中を撫でてあげた。
「エメスに聞いて、幾つか分かったことがある。マウは、母様を魔力で撃てなかったんだよ。だからここにいる」
姉姫が将軍を宥めている頃、マウは迫り来る黒騎士たちと今まさに対峙しようとしていた。
「死にたくねえなあ、畜生…」
かつて女王に命は惜しくないのかと問われたとき、自分は何と答えたか。
(…そうだよな、それでも失いたくないって思ったんだ)
魔霊と人間の戦いには興味がなかった。
結局のところ、縄張り争いでしかないと思ったからだ。
人間は、戦争をさも悲劇的に謳うが、生物同士が殺し合うのは自然の摂理だ。
これっぽっちも特別なことじゃない。
(…本当に価値があると信じてたものは喪われて、積み木みたいに哀しさが募ってく。生きる意味なんてあるのかな? って)
…でも諦めきれないんだ。
ぼろぼろになって、それでもなお、マウは吠えた。
「だから命は尊いんだろ!」
今、覗きに執念を燃やす少年の魔力が進化しようとしていた。
翅を広げて舞い上がったアプリカの身体が、ちかちかと点滅する。
幻術という枠組みは、魔術師にとって一つの大きな壁だ。
壁の向こうに広がる世界を、大半の魔術師が、その存在すら気付かないまま生涯を終える。
だがこのとき、非凡な、否、「異常」とさえ称された使い魔が、その壁を乗り越えつつあった。
明滅するアプリカの付近に、数式と図形が幾重にも浮かび上がる。それらはアプリカを取り巻き、入れ替わり立ち替わり、周囲を巡った。
その光景は、マウの認識する世界の「外側」だったから、彼が目にすることはない。
だが、何かが新しく始まるという予感があった。
その予感に導かれるままに、彼は叫んだ。
「アプリカ!」
物理的に不可能なことは魔力で再現できない。
だが、本当に不可能なことなどこの世にあるのかという、それは問い掛けだった。