第三十一話、男の戦い
魔霊を基準に作られた王城の設備は、そのどれもが民家一つに相当するほど広い。
無論、浴場も例外ではなかった。
かつては湯殿と呼ばれたこの施設は、十年ほど前に黒騎士たちの手による大々的な改装を経て、今や立派な檜風呂と化している。
一段高く設けられた浴槽から岩清水のように湧き出るお湯が足を浸し、波打ち際を歩いているような風情があった。
湯煙の中、白い裸身が二つ絡まり合い、蠱惑的なシルエットを浮かべていた。
「あの、将軍? 胸を押し付けるのやめてくれない?」
妹姫の未発達な小さな身体を膝に乗せた将軍が、泡まみれの手で彼女を洗ってあげていた。
「……」
無言だ。
このつるぺったんが、あと数年で自分に追い付き追い越すのだと思う度に、将軍は世の不条理を嘆かずにはいられない。
あなたも大きくなれば胸が膨らむわよ…と、かつて姉姫は言った。
やがて成長期も軽やかに過ぎ去り、そして現在、将軍は十五歳になる。
マイナス方向に感極まり、とうとう洟をすすり始めた年上の少女に、七歳の女児がフォローを入れる。
「いや、あのね。あなたもスタイルいいと思うわよ? 腰が細いし、胸だって…まだ成長の余地が残されてると思うの」
そこには触れないのが本当の優しさなのだと知るには、彼女は幼すぎた。
「ぐすっ…三年前にも、殿下に同じことを言われました」
「おおう…」
妹姫が絶句している頃、マウは群れ成し襲い掛かってくる黒騎士たちと激突していた。
「うおおおっ!」
才覚に恵まれない魔術師が更なる高みを目指すなら、まずは己の肉体を完全に制御する術を学ばねばならない。
雲霞の如く押し寄せる黒騎士たちを、マウはときに走力で振り切り、またあるときは怪鳥のように跳躍することで突破を試みていた。
何者かのリークがあったのか、黒騎士たちはその手に聖なるピコピコハンマーを掲げ、魔道に堕ちた魔術師の退路を徐々に削り取っていく。
小隊単位の黒騎士が矢継ぎ早に投入され、所狭しと通路を跋扈する。
事態は今や、大規模な鬼ごっこの体裁を擁していた。
既に何度か捕まり、その度に泣くまでピコピコされたマウの体力は、少しずつ、されど確実に奪われつつある。
千騎近い黒騎士から逃げ惑うマウは、しかし冷静に戦局を見極めている。
(一網打尽にするしかない)
謁見の間へと続く階段を駆け上がる、その足に迷いはない。
(喚べて二度。気合と根性で三度…いや、気絶しては意味がない)
もはや自分に嘘を吐いても仕方ない。
彼は認めた。
「おれはっ」
くるりと反転し、彼は跳んだ。
身投げとしか思えない暴挙に、黒騎士たちの視線が一斉に集中した。
…そう、この瞬間を待っていた。
「おれは女の子のハダカを見てみたい!」
渾身の魔力を込めて刀印を振り下ろしたマウの肩に、使い魔が発現した。
「アプリカ!」
…一人の少年が己の全てを賭していた頃、将軍の背後に忍び寄る影があった。
「少しは成長したかなあ?」
「ひゃあっ」
後ろから抱き付かれた将軍が、頓狂な声を上げた。
にやにやと厭らしい笑みを浮かべた姉姫が、大きくなあれ大きくなあれと願いを込めてマッサージを施してきたのである。
「このセクハラ王女〜!」
顔を真っ赤にした将軍が腕を振り上げて威嚇すると、姉姫は一目散に逃げ出した。
追い駆ける将軍を尻目に、解放された妹姫が安堵の息を漏らすと、足元のお湯が独りでに盛り上がり、全身の泡を洗い流してくれた。
「ありがと、リブ」
髪を編み上げながら、礼を言う。
リブと言うのは、霧の魔霊レヴィアタンの愛称だ。
これという実体を持たない彼女は、水と同化し自在に操ることができる。
気まぐれな性質をしており、ときとして気に入った人間に力を貸したりもするようだ。
とくに女王に対して忠誠を誓っている訳ではないものの、砂の魔霊エメスとは親交が深い。
意外と世話焼きな部分があるから、それでかもしれない。
エメスは強力な魔霊だが、それ故に広く弱点を知られているのだ。
足を滑らせて転びそうになった将軍を、お湯のクッションで受け止めて、そのまま湯船に放り投げる辺り、レヴィアタンの性格がよく表れている。
奇怪な悲鳴を上げて着水した将軍が、顔に張り付いた髪を乱暴に掻き上げて、手近な湯煙を叱り飛ばす。
「リブ! お前、もうちょっとわたしを敬え! わたしはお前より偉いんだぞ!」
子供みたいなことを言う将軍に、姉姫がお腹を抱えて笑い転げていた。