第二十六話、幼馴染み
そして、二人は無言で厨房に立っていた。
将軍と姉姫である。
「……」
「……」
何だか気まずい雰囲気だった。
いつもべたべたしてくる姉姫が隣で黙々と作業しているのを、将軍はちらちらと見ている。
(話題…何か話題を…)
うー…と奇怪なうめき声を上げた彼女は、無理やり笑顔で姉姫に話し掛ける。
「ひ、姫様は普段お料理をされるのですか?」
将軍は、二人きりのとき姉姫を「姫様」と呼ぶ。
妹姫の誕生を境に互いを取り巻く環境が変わって、何事も昔のようには行かなくなったけど、それでも将軍にとって姉姫が、かけがえのない存在であることには変わりない。
感情が昂ったときにも無意識の内にそう呼んでいるようで、エメスなどは妹姫と混同してややこしいと愚痴を零すが、はっきりやめろとは言わない。
この二人の絆は、魔霊たちから見ても特別で、第三者が口出しするのは躊躇われるのだ。
その関係に今、亀裂が走ろうとしていた。
姉姫は将軍を一顧だにせず、魚なのか蛙なのか判然としない生物の頭を、包丁ですとんと落とした。
「黒騎士がやってるの、偶に見てたから」
黒騎士から借りたエプロンはこんなにもあんなにも白いのに、将軍の気持ちは暗澹とするばかりである。
将軍は悔やんだ。
(わたしのバカ…やっぱり性急すぎたんだ! あとで問い質すなり何なりすれば良かったのに…でもでも…!)
うあー! と内心で仰け反る将軍は、だがしかし、それでもやはり、マウを許せなかったのだ。
「…姫様!」
「鍋」
「あ、はい…」
指摘されて、おたまで鍋をかもす将軍は、挫けそうだ。
どどめ色のスープが、ぽこりと気泡を立てる。
鼻を突く刺激臭も、しかし将軍の心をへし折ることは叶わなかった。
「姫様」
「何?」
ただ姉姫の冷たい声音が、何より将軍の心に深く突き刺さる。
自分を呼んだきり硬直する将軍に、姉姫はやれやれと肩を竦めた。
この幼馴染みは、戦のかけひきばかり達者で、敵に対してはどこまでも強気になれるのに。
昔からそうだった。
自分と喧嘩したときに限っては頭が真っ白になり、あとで部屋に戻って号泣するのだ。
だから、いつもこんなふうに自分が折れることになる。
「なあに? 将軍」
仕方なく微笑む姉姫に、将軍の思考が再び活動を開始した。
姉姫が包丁を手にしていなければ、抱き付いてわんわん泣いていたかもしれない。
鼻がつんとした。
「…姫様。姫様は…あの男が好きなのですか?」
洟をすすりながら尋ねてくる将軍は、きっと今、あまり頭が回っていない。
結構とんでもないことをさらりと訊かれて、けれど姉姫はあっさりと肯いた。
「そだね」
「な、なにゆえ?」
「なにゆえとな」
調子が出てきた。
姉姫は怨嗟の声を上げる野菜たちを包丁でざくざくと刻みながら、「そうだなあ…」とカウンター越しにマウを見遣る。
椅子に縛り付けられてもがいている彼は、見張りの妹姫に「おれをここから逃がしてくれ!」と懇願していた。
「食べなきゃ死んじゃうんでしょ。あなた馬鹿なの?」
「生きることよりも大切なことが、この世にはあるんだよ…!」
妹姫に窘められて、慟哭するマウを見る姉姫の視線が、はっとするほど優しい。
「見てて飽きないからかな。真っ向から母様に啖呵を切る人間なんて、そうそういないでしょ」
彼女は、刻み終えた野菜を順にスープへと投下しながら、将軍に微笑みかけた。
「もちろん、あなたのことも好きよ、将軍」
普段の彼女と違う口調は、将軍に過去の思い出を連想させた。
妹姫が生まれてから、姉姫は変わった。
目に見えて明るくなり、言葉遣いも砕けて親しみやすくなったと、魔霊たちは言う。
けれど将軍は、心配だった。
表面上は女王と別の道を歩んでいるように見える幼馴染みが、、成長するにつれて何故か…むしろ女王に似ていく錯覚に囚われたからだ。
それは本当なら喜ばしいことの筈なのに。
だから将軍は、彼女が昔と同じ貌を見せてくれて、ひどく安堵したのだ。
そのことと比べれば、マウを友達として好きなのだという姉姫の言葉さえ些細なことだった。
「ああ、何だ、そういう意味ですか。そうですよね!」
けれど将軍に自覚はなかったから、思ったよりも嬉しくなって、溢れた感情が彼女のテンションを底上げしたのだ。
隠し味にと黒騎士から預かった小瓶を剣帯から取り出した将軍は、小躍りしながら詮を抜き、中身を一滴、鍋に垂らした。
じゅっ…と壮絶な溶解音がした。
「一体何を混ぜた手前えーっ!?」
マウが絶叫した。