第二十五話、黒騎士
帝国が自分の全てだった。
魔霊たちが人間を憎み、一方で愛するのは、不老長寿の彼らにとって帝国が狭すぎるからだ。
だが、自分は違う。
多くの魔霊と比べて矮小なこの身には、翼すら生えていない。
帝国から一歩でも外に出れば、自分を待ち受けているのは「裏切り者」という侮蔑と、百万にも及ぶ敵意だけだ。
王族のために生きようと誓ったのはいつだったか覚えていない。
それは自分にとって息をするように自然なことで、覚悟する必要さえなかったからだ。
女王は厳しい人だから、愛情を向けてもらった記憶はない。今後もないだろう。
それでも自分に居場所を与えてくれたのは彼女だし、もしも自分に血の通った人間らしさというものがあるのだとしたら、
…それを与えてくれたのは、きっと二人の姉妹だった。
「動くな」
マウの背後に現れた黒騎士が、彼の喉元に冷たい刃を突き付けていた。
「動けば殺す」
一切の感情を排した将軍の瞳が、冷徹にマウを見据えていた。
将軍は、黒騎士たちを召喚し使役する権能を女王より直々に授けられた、この世で唯一の存在だ。
彼女と彼女の認識する世界の狭間から、黒騎士は自在に行き来できる。
黒騎士とは、すなわち影の魔霊だからだ。
将軍という実体を基点とするため、召喚できる範囲は精々が二〜三メートルといったところだが、光あるところに影があるように、召喚そのものは瞬き一つで終えることができる。
影より這い出る騎士を常に引き連れていることと、その美しい容貌から、人間たちは彼女を「影姫」あるいは「戦姫」と呼ぶ。
今、その影姫がマウの命を一手に握っていた。
とっさにマウを庇おうとした姉姫が、
「姫様」
将軍のたった一言で動きを封じられた。
将軍は、姉姫の大事な幼馴染みだった。
でもマウは…
葛藤する姉姫に、マウはにこりと微笑んだ。
背後の将軍に語り掛ける声が、場違いなほど穏やかだった。
「姉姫が大事なんだね、将軍。それは…」
彼は何かを問おうとして、やめた。代わりにこう尋ねる。
「…女王から聞いてないの? 魔術師を剣で倒すのは無理だよ。僕らは用心深いからね」
しかし将軍はひるまなかった。
「魔力で姿を消すか? それもいい。だが…」
彼女は、マウの魔力の働きを常に注意深く観察していた。
「だが、お前はわたしに使い魔を見せたな」
そして、その機会は十分にあった。
「追われて消えるお前と、消えて追われるお前は、どちらかが嘘なのではない。どちらとも本当なのではないか?」
「だったら試してみればいい」
マウは強気に応じた。
だから将軍は確信した。
「今、わたしたちの目の前にいるお前が偽物かもしれないと知ってなお、わたしがお前を本物だと心の底から信じたなら、どうなる?」
(…この子は…)
マウの脳裏に浮かんだのは、かつて女王と対峙した際に、自分の魔力を正面から打ち破った老騎士の姿だった。
(そうか…あの人の弟子か…)
遣り方は違えど、この勘の良さ…急所を嗅ぎ当てる嗅覚とでもいうのか…には覚えがあった。
将軍の言うことは…おそらく事実だった。
おそらくというのは、マウ自身にも確証がなかったからである。
一つ誤解があるとすれば、魔力の定義だろうか。
その口振りから、彼女は催眠術の一種と考えているようだが、それは魔力そのものというより、魔力を制御する理屈の部分だ。
魔力とは、もっとずっと曖昧で、これという形を持たない、あやふやなものだ。
心がそうであるように。
だが、肉体が滅べば心も拠り所を失うように、理屈を押さえられた魔力は正常に動作しない。
それは、本来ならば机上の空論に過ぎないのだが…
「…そんなことは出来やしないんだよ」
「試してみれば分かる。そうだったな?」
そう言われると自信がなくなってくる。
マウは困った。だって死にたくないし。
主人の危機を察知して発現したアプリカは、ポーカーフェイスを気取っているマウに代わって将軍の脅しにびっくりどっきりしている。
そして一段飛びで死期を悟った優秀な使い魔は、はらはらと落涙し、しきりに辞世の句を詠むよう勧めてくる。
「ちょっ、内心どきどきしてるのがバレるから!」
言われて、はっとしたアプリカが、マウの肩でぴしりと姿勢を正した。
(よし…)
ここからは我慢比べになる。マウは肩越しに不敵に笑い、
「…そんな脅しが僕に通用するとでも?」
「いや、手遅れだろ」
「ですよね」
律儀にツッコんでくれた妹姫に、マウは同意せざるを得なかったのだ。
すっかりぐだぐだになった空気にも、将軍は屈さない。不屈の人である。
「…術士、答えて貰うぞ」
「何なりと」
マウはあっさりと従った。
何しろ将軍は、いつでも彼を殺すことができた。
彼女の狙いは別にあるのだろう。
そんなことにも気付けないほど、自分は頭に血が上っていたらしい。
(僕は…)
姉姫と目が合う。
彼女の視線は、将軍とマウの間で不安そうに揺れていた。
…彼女は、本当に頭の回転が早い。
だからマウは、将軍に問いを投げ掛けるのだろう。
「ただ、最初に言っとく。僕は女王が嫌いだ」
妹姫が息を呑む気配がした。
将軍は、何故とは問わなかった。
ただ、代わりにこう問うた。これだけは、はっきりしておかねばならなかった。
「お前は人間だ。お前は…帝国に敵しないと誓えるのか?」
「誓えるよ。と言うより、もう誓った。女王と約束したからね」
マウは即答した。
「僕は…約束は破らない」
「…そうか。ならばいい。では次の質問だ」
「はあ…どうぞ」
「好きな食べ物は?」
「え、軽いな急に」
「答えろ」
「ちょっと待て、何かおかしい」
何かおかしいと振り返ったマウが目にしたものは、フリップを掲げている黒騎士の姿だった。
「黒騎士のお悩み相談コーナーだ」
しれっとして言う将軍を、マウは無視した。
「何だ、どした? 聞きたいことがあるなら、直接おれに言えばいいだろ」
顔を覗き込もうとすると、黒騎士はふいと目線を逸らした。
「え、何? これ何なの? あ、やだ。何かやだ。凄い嫌な予感がする」
「ときに、術士よ」
「ときにじゃねえよ。ホント勘弁して下さい。まじで」
ペコペコと頭を下げるマウに、将軍は無情にも告げる。
「お前、食堂で一回も食事をとっていないらしいな」
黒騎士は嘆いていたのだ。