第二十二話、疾風の如く
母は、定期的に城を空ける。
もうこちらでの生活がだいぶ長いと聞くが、元々母はこことは別の、魔霊しかいない世界の出身で、ときどき里帰りするのだった。
足手まといになるからと、娘二人を置いて。
今頃は故郷でゆっくりと羽を伸ばしていることだろう。
最強の魔霊が同行しているので、警護は万全だ。
将軍が珍しく暇そうにしているのは、女王の留守を任されて、城から動けないからである。
人間たちと違って本来的に衣食住を必要としない魔霊の国であるから、とくべつ内政に手を付けることもない。
城を出発する前日に、遠征から戻った女王が土産に連れてきたという絶滅危惧種の魔術師は、よい暇つぶしのネタではあった。
「寝てる…」
廊下にうつ伏せで倒れているマウの傍らで、しゃがみ込んだ妹姫が、ぽつりと呟いた。
「姫様、御髪が…」
マウ個人にさして興味がない将軍は、気絶したままぴくりともしない少年よりも、妹姫の長い銀髪が床に広がり汚れるのが心配だった。
姉姫もそうだが、帝国の至宝たる美姫らは純粋であるが故に無防備で、見ていてはらはらする。
絹製の長手袋に包まれた、たおやかな指先がマウの頬にそっと触れるのを見て、将軍は密かに完全犯罪の構想を練り始める。
遺体の処理をどうするかで悩んでいると、ふと妹姫が口を開いた。
「先生が」
「は…」
将軍は居住まいを正した。
妹姫の言う「先生」とは、姫姉妹の教育係を務める魔霊のことだ。
文武に優れ…将軍にとっては師に当たる老騎士に、彼女は頭が上がらない。
妹姫は続けた。
「…先生が、彼のことを変わった魔術師だって。あなたはどう思う?」
「は…いえ、わたしは彼以外の魔術師を知りません。師は、他に何と?」
「そうね…もしも本気で魔術師が逃げを打ったら、捕まえるのはまず無理だって言ってたわ。母様は…大層喜んでいらしたそうよ」
将軍は内心で舌打ちした。女王の喜びは、彼女にとって何より優先される。
それをよりによってこの自分が奪う訳には行かなかった。
命拾いしたな…と胸中でマウに語り掛ける。
「陛下は、この男をどうなされるおつもりなのでしょうか?」
おそらく女王は、魔術師が魔霊との交信を可能としていることを知っている。
だから将軍は、許されるならば彼を自分の副官に置きたかった。
それを察してか、妹姫が振り返り艶やかに微笑んだ。
「あら、将軍。あなた、彼に何かを期待してるの?」
将軍は正直に告白した。
「姫様、この男は危険です。面妖な技を使い、周囲を煙に巻く…。ですが、わたしなら」
「あなたなら?」
妹姫に促されて、将軍は不敵に笑った。
「一息で仕留められます。藁のように」
彼女はマウと行動を共にする中で、魔力の致命的な弱点を看破していた。
「魔術師に共通する特徴かどうかは分かりかねますが、彼の魔力は速い。…が、わたしはもっと速い」
「…あなたの中で、あなた自身がどんだけ俊敏に動けてるのかは知らないけど…」
妹姫は、憐れみの目で将軍を見ていた。
「それ、勘違いだから。あなた、剣もろくに扱えないでしょ…」
「え…?」
「きょとんとするな」
剛腕で以って知られる黒騎士たちを手足のように運用する将軍は、自分のことを天才剣士か何かと勘違いすることがままあった。
黒騎士にできて自分にできないこともないだろうという彼女の理屈が、妹姫にはよく分からない。
「……」
将軍はしばし沈思してから、ぽんと手を打つ。
「姫様はご存知ないかもしれませんが、わたしの二つ名は疾風と言ってですね」
「それ今考えただろ! ないから! 目を覚ませ!」
黒騎士たちの苦労が偲ばれて、涙が出てきた。