第十九話、サイレン
将軍の仕草で判断したに過ぎないマウだったが、「懐中時計」という表現は奇しくも正鵠を射ていた。
サイレンの住処は、よくよく見るとフラスコに近い外観をしており、上部の円筒に当たる部分がない代わりに落下防止の鎖が取り付けられている。
肝心の球は厚いガラスで作られているようで、指先で叩くとコツコツと小気味いい感触が返る。
大きさは掌にすっぽりと収まる程度で、少々窮屈そうではあった。
小さな小さなお家の中で、彼女は妖精のようにくるりと回ると、両手をお腹に当てて上品にお辞儀した。
空色の大きな瞳が、ぱちくりと瞬いてマウを見上げてくる。
《初めまして、懐かしい友達の人。女王様からお話は伺っています。あなたのこと、わたしもユーティと呼んでも?》
彼女たちの生みの親である女王は、マウをユーティと呼ぶ。
可愛らしい仕草に絆され「喜んで」と頷き掛けたマウが直前で踏み止まれたのは、奇跡に近かった。
「…ありがとう、懐かしい友達の人。でも、僕のことはマウと呼んで欲しいな。どちらかと言うとそっちが僕の魂の名前で、…ご存知でしたか? あなたたちの女王は、ちょっと意地悪なんです」
愛くるしい小人の手前、マウはこの上なく盛大にソフトな表現を心掛けた。
「魂の名前?」
と、しつこくツッコミを入れてくる将軍に、マウはにこやかに指をさっと振ってお口チャックの秘術を施した。
「む~っ、む~っ」
苦しそうにうめく彼女の耳元に口を寄せて、そっと囁く。
「…忘れるんだ、いいね? いい子だから…あまり僕を困らせないで」
妙に艶のある声だった。
濡れた低音が脳髄を痺れさせるかのよう。
将軍は背筋をぞくりと震わせて、されど一方的な要求に屈しはしなかった。
「むーっ!」
とマウの頬に手をやって、ぐいぐいと抓る。
思わぬ反撃に、マウが鼻白んだ。
「痛え!くそ、こいつとんでもねえ精神力してやがんな…」
まさか遣り返す訳にも行かず、これでも男の子、甘んじて受け入れる。
頬を引っ張られつつも、構わずサイレンとの会話を続行する気概は天晴れの一言に尽きるだろう。
「とにかく、そういう訳だから。その名前は僕にとって、あまり好ましいものじゃ…って、まじ痛い!」
しかし物事には限度があるのだ。
これ幸いと人肌の伸縮性の限界に挑み始めた将軍に向き直ると、興奮のあまり密着してきた彼女の荒い鼻息が喉をくすぐった。
たまらず悲鳴を上げるマウ。
「ふーっ、ふーっ!」
「近い近ーい! あなた女の子でしょ! もうちょっと慎みってもんを持ちなさいよ!」
これでは埒が明かないと、彼女を力尽くで引き剥がして、魔力を解く。
発言の自由を取り戻した将軍が、肩で息をしながら不敵に笑った。
「勝った…!」
「…そういう問題じゃないでしょ。まったくもう…」
脱力したマウが、赤くなった顔を逸らしてぼやいた。
二人の遣り取りを眺めて、くすくすと笑っているサイレンに、何か文句を言ってやろうと振り返り、彼はぎょっとした。
つい先程まで屈託なく笑っていた小人が、くつくつと笑動を噛み殺していた。
それだけなら、まだいい。
ちょっとした心境の変化だと自分を納得させることもできただろう。
しかし事態はより深刻だった。
サイレンの容貌が様変わりしていたのだ。
彫りの浅い顔立ちは幼げで、人を食ったような表情が不釣り合いな印象を与える。
白いカッターシャツの襟元から覗く鎖骨が今にもぽきりと折れそうで、訳もなく悲しくなる。
体格そのものは大きく変わっていないのに、薄い胸板と華奢な肩、細い手足がひどく頼りなく見えるのは何故なのか。
マウは、深く嘆いた。この世の終わりでも見たかのようだった。
「か、可愛くねえ…!」
すっかり変わり果てたサイレンが、口調まで一変させて語り掛けてくる。
《君の負けだね、マウ。どうだい、僕らの元帥はちょっとしたもんだろう?》
マウは、答える気力も湧かなかった。
ただ、どうしたら以前のような愛らしい小人さんに戻ってくれるのか、そればかりを考えていた。
一方、将軍は未知の感覚に戸惑っているようだった。
「これは…伯爵とエメスの気持ちが少し分かるような…こ、この優越感は一体…」