第十六話、エメス
「人間如きが、このわたしにどうして勝てるものか!」
呪縛が…破られようとしている!
マウは目を見張った。
魔力の呪縛とは、実は物理的な拘束力によるものではない。
心身の正常な連動を妨げ、手足を萎えさせる秘術だ。
それを打ち破りつつあるということは、彼女の膂力が人間のそれを逸脱したものであることを意味していた。
しかし、それでもだ。それでも人間は…今ある手持ちの札で戦っていくしかない。
たとえ配られたカードに絶望的な格差があろうと、挑むことをやめたなら、もう二度と立ち上がれないと知っているからだ。
それは、神秘を使うとされる魔術師にとっても変わらない。
彼らもまた、どうしようもなく人間で、「諦めない」という特権は彼ら人間のためにあるようなものだと気付いていたから、それを手放すほど賢くもなれない。
生きるということは、そういうことだ。
他から見れば泥臭い生き様だろうと、譲れないものがあるのなら。
「アプリカ!」
使い魔を発現したマウが、人差し指と中指を立てた刀印をエメスに叩き付ける。
これまでとは比較にならないほどの魔力が放たれ、エメスの四肢が砕け散った。
極めて強力な暗示は、現実に迫ることができる。
アプリカという非凡な使い魔には、それが可能だった。
…それでも現実は常に残酷で、いつだって人間は試されている。
半ばからへし折れたエメスの手足から、さらさらと砂が零れ落ちていた。
「弱いなあ、人間は。どうしてそんなに…」
弱いの、という言葉は崩れて消えた。
エメスの全身が頭から順に風化し、足元に降り積もった砂が体積を増すごとに、彼女は本来の姿を取り戻しつつあった。
いつしか視界を埋め尽くしていた砂塵が、やがて巨人の輪郭を描ききったとき、彼女は魔神の咆哮を上げた。
「…馬鹿な…」
天井すれすれまで届く巨大な体躯を見上げて、マウが呆然と呟く。
彼の四方を固める黒騎士が、緊張に震える腕で一斉に抜剣した…
「馬鹿はお前だ!」
もちろん将軍に怒られたのは言うまでもない。
「何事もなかったように続行するな! お前らまで一緒になって何だ!」
マウの頭をぽかりとやった彼女は、続けて友情出演の黒騎士たちをガミガミと叱る。
叱られつつも、どこか満足げな彼らの言い分を、マウが通訳する。
「楽しそうだったから、つい…と」
「むむ…」
将軍がうなる。
彼女は、忠実な兵士であり、最若年の魔霊でもある黒騎士に対して、甘さを捨てきれない部分がある。
屈強な魔霊たちに囲まれて育った弊害か、他者に厳しく自分に甘い将軍は、自らの半身とも言える黒騎士たちに強く出れないのだ。
だから彼女は、矛先を別に向けることにした。
「エメス! エメス!」
声を張り上げて呼ばわると、砂の魔神エメスはどうと呆気なく崩壊し、舞い上がった砂埃の中から性懲りもなく将軍の姿で現れた。
「ちぃーっす」
気だるそうに片手を上げる「自分」に、将軍が掴み掛かる。
いくら自分に甘いといっても、こればかりは別らしい。
「エメス! またお前はそうやって勝手に人の姿を…!」
胸ぐらを掴まれてがくがくと揺すられながらも、エメスは堪えた様子もなく、へらへらしている。
彼女は将軍の頬に片手を添えると、吐息の掛かる距離でこう囁いた。
「だって、あんた人間にしちゃ綺麗だもの」
エメスは砂を司どる魔霊だ。
その本性は女王が作り上げた泥人形であり、美しいものを好む。
魔霊の中でも一、二を争う変身能力を有する彼女は、言葉を話せる数少ない魔霊の一人だった。
真正面から綺麗だと言われても、将軍は動じなかった。
この世のものとは思えないほど容姿端麗な王族を間近に見て育った将軍であるが、世間一般の基準で自身の容貌が美少女に相当することくらいは自覚していたからだ。
「だからと言ってお前、あんな、むむ、胸を…!」
そんな彼女にも、コンプレックスというものはある。
耳まで赤く染めて詰め寄ってくる将軍に、さすがのエメスも悪ふざけが過ぎたと思ったらしく、神妙な声で詫びを入れる。
「あー…ごめん。隣にあんたが転がってるのに、普通に乗ってきたもんだから、つい」
床に座り込んで黒騎士たちとフォーメーションの確認をしていたマウが、ぎょっとして振り返る。
「おい、人の所為にするなよ。おれの目の前で堂々と彼女を縛っておいて、それはないだろ」
結論から言うと、二人とも悪い。
とりあえず説教を後回しにして、将軍は馬鹿二人に尋ねる。
「知り合いか? 随分と仲がいいんだな」
皮肉を交えて言うと、意外やエメスが「冗談!」と憤慨した様子でマウを睨み付けた。
「そりゃあ知り合いだけどさ。あたしは気に喰わないね。こいつの女王様への態度ときたら!」
「それは…」
将軍は、掛ける言葉を失って黙り込む。
ちらりとマウを一瞥すると、彼は拗ねた表情で顔を背けた。
いつも飄々としているような印象を受ける少年だが、そんな彼でも感情を剥き出しにする瞬間がある。
それは、女王と相対しているときに見受けられることが多く…
どうも彼は、女王を嫌っているらしかった。