雨音の部屋
翌日。
明け方から降り続いていた雨は、午前になる頃には本格的になっていた。
屋根を叩く水音が規則正しく、どこか子守歌のように響いている。
部屋の窓は半分だけ開けられており、湿った初夏の風がゆるやかに流れ込んでいた。
リュシアンは窓辺の椅子に腰掛け、本を読んでいた。
ページをめくる指先に、雨の匂いがほんのりまとわりつく。
こういう日も悪くない、と素直に思う。
横を見ると、ヴァルがベッドの上で寝転がっていた。
昨夜からどうにも体調が悪そうで、顔色も少し青い。
「……」
うなされている様子に、リュシアンは一度だけ視線を落とす。
だが声をかけることはしなかった。
起こしてしまうのもよくない。
セリスは朝から姿がない。
どうやら宿の調理場に入り込んでいるらしい。
企業秘密のソースが気になり、果敢にもザンブルに挑戦していると聞いた。
さらにルカとレオが「面白そう」という理由だけで参戦しているらしい。
(……嫌な予感しかしないな)
ヴァルが再び苦しそうに眉を寄せる。
リュシアンはため息をつき、本を閉じた。
「水くらいは持ってくるか」
立ち上がり、部屋を出る。
だがそれが間違いだった。
⸻
花うさぎ亭の食堂は、雨音にも負けない騒がしさに包まれていた。
「すみませんでした!!」
ルカの声が響く。
その横でレオが泡だらけの手を振り回している。
「もう怒らないでってー!」
厨房の奥では、ザンブルが腕を組んで立っていた。
背後のまな板には、包丁が深く突き刺さっている。
顔の大きな傷が、いつも以上に怖い。
その足元には、山のように積まれた皿。
「……何をしたんだお前たちは」
リュシアンが呆然と呟く。
ルカが振り返ると、ぱっと顔を明るくした。
「お、ちょうどいいところに」
嫌な予感が確信に変わる。
「俺はヴァルに水を――」
言い終わる前に、腕を掴まれた。
「手伝え」
「断る」
だがそのまま流れるように皿洗い場へ引きずり込まれる。
「俺はヴァルに水を持って行きたいんだが」
リュシアンが真顔で訴えると、ルカがふっと何かを思いついた顔をした。
「ならセリスが持っていけばいい」
「なんでそうなる?!」
本気で意味が分からない、という顔で抵抗するリュシアン。
しかしルカとレオはニヤニヤしながら肩を押さえ込む。
「まぁまぁまぁ」
「ちょっとくらいいいじゃん」
「離せ」
「セリス!今だぁ!」
まるで戦闘中の号令のような声。
反射的に、セリスが答えてしまう。
「はいっ!」
はっとした時にはもう遅い。
手に水の入ったコップを持ち、階段の方へ歩き出していた。
「……え、あの」
後ろからルカの満足げな声。
「頼んだぞー」
セリスは戸惑いながらも、足を止めなかった。
⸻
部屋の前に立つ。
ノックをするか迷い、少しだけ躊躇う。
だが中から、かすかなうめき声が聞こえた。
「ヴァル?」
静かに扉を開ける。
薄暗い部屋の中、
ヴァルは寝返りを打ち、荒い息をしていた。
額に汗が浮かんでいる。
セリスは驚き、急いでベッドの傍に寄る。
「大丈夫?」
返事はない。
彼女は迷ったが、そっと手を伸ばし、額に触れる。
「……熱い」
想像以上だった。
「少し、無理をしたみたいね」
水をテーブルに置き、
濡らした布を用意しようとして、はたと止まる。
少しだけ戸惑いながら、それでも布を絞る。
その間に、ヴァルがゆっくり目を開けた。
「……セリス?」
低く掠れた声。
「起こしてしまった?」
「……なんで、お前が」
「リュシアンさんに頼まれて」
少しの沈黙。
ヴァルは目を細める。
「……嘘だろ」
セリスは視線を逸らした。
少しだけ間が空く。
「……ルカさんです」
ヴァルが小さく笑う。
「だろうな」
彼女は布を額に乗せる。
ヴァルは一瞬だけ驚いた顔をしたが、抵抗はしなかった。
「……お前、こういうの慣れてないだろ」
「ええ」
「でも来た」
「はい」
また沈黙。
雨の音だけが部屋を満たす。
しばらくして、ヴァルがぼそりと呟く。
「……ありがと」
セリスは少しだけ目を丸くした。
「どういたしまして」
その声は、いつもより柔らかかった。
雨音が、静かに窓を叩き続けていた。
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