番外編——回廊の先で
※時系列は本編最終話より少し前に遡ります。リュシアンの旅立ちの後、とある夜の物語。
どこかの町の石畳の小道の奥。
看板も控えめな、小さな店。
「回廊」
研究者たちが好んで通う、静かな酒場だ。
ひとりで来る客が多く、誰も長居はしない。
一深い思索のための場所だ。
あなたは偶然、空いていたカウンター席に腰を下ろす。
隣には、すでに一人の客がいた。
背筋の伸びた姿勢。
無駄のない所作。
緑色の酒を、静かに揺らしている。
かすかに触れ合う氷の音がした。
「この店は初めてですか」
穏やかな声だった。
中低音の落ち着く、
どこか遠くまで見通しているような響き。
あなたが頷くと、彼はわずかに微笑む。
「ここは、通り過ぎる人のための場所だ」
「通り過ぎる?」
「ええ。研究も、人も、街も。立ち止まることはあっても、留まり続けることはない」
言葉は理性的なのに、どこか柔らかい。
あなたは何気なく問いかける。
「あなたも、通り過ぎる側?」
グラスの中の氷が、ゆっくりと溶ける。
緑色の酒がグラスの底からモヤモヤと白く濁っていく。
「そうだな」
彼は小さく息を吐いた。
「だが最近は……通り過ぎるだけではないと、思えるようになった」
視線はグラスの向こう。
「良い仲間に恵まれた。俺がいなくても進める人たちだ」
その言い方は誇らしげでも、寂しげでもなく、ただ、確信があった。
「あなたは?」
不意に問われる。
あなたが言葉を探す間も、彼は急かさない。
沈黙が心地良い。
やがてあなたが小さく答えると、彼はゆっくり頷いた。
「それでいい」
短い肯定。
それだけで、なぜか背筋が伸びる。
店内は静かでどこか心を洗われるような気がした。
キュッキュッっと遠くの方でグラスを拭く音がする。
彼は残っていた酒を少しだけ口に含み、
グラスをカウンターに置いた。
まだ半分ほど残っている。
「そろそろ行く」
立ち上がる動作は滑らかで、迷いがない。
「また来ますか?」
あなたが何気なく問う。
彼はほんの一瞬だけ考え、柔らかく笑った。
「世界は思ったより狭い」
それ以上は言わず、会釈をする。
静かな足取りで去る彼を見送る。
扉の鈴が控えめに鳴る。
そして——
残されたグラスの氷が、ゆっくりと溶けて、カランと鳴った。
あなたはその音を聞きながら、 なぜか不思議な確信を抱く。
あの人は、きっと今日もどこかで研究を続けている。
誰かの背中を押しながら、
自分もまた、前へ進みながら。
世界のどこかで。
もしかしたら、あなたの街で。
あなたは自分のグラスを見つめる。
氷が少しだけ残っている。
胸の奥に、小さな熱が灯る。
——もう少し、やってみよう。
立ち止まるのは、まだ早い。
静かに席を立つ。
回廊の夜は続いている。
そしてその先へ、あなたもまた一歩歩き出す。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
こちらの番外編で、蒼影の灯火は完結となります。
みなさんはこの旅の中で、何を見つけましたか?
その見つけたものが今後の人生を豊かにするものでありますように……




