第6話「判断の音」
当事者だと意識した途端、仕事が特別なものに変わるわけじゃない。
朝はいつも通り来るし、受話器もいつもと同じ重さだ。
だが、その日は最初から違っていた。
出社してすぐ、課長に呼ばれた。
会議室には、法務と役員クラスが揃っている。珍しいことだ。
「今日は一件だけだ」
課長はそう言った。
「クレームというより……判断の確認だ」
案件は、社内でも扱いづらい部類だった。
長年使われてきたサービスの仕様に“誤認されやすい表現”があり、利用者の一部に不利益が出ている。
法的には問題なし。
だが、感情的には確実に火種になる。
「問い合わせが来たら、どう対応する?」
役員が俺に聞いた。
これは試されている。
会社を守るか、利用者に寄るか。
そのどちらかを選べ、という問いだ。
俺は深く息を吸った。
「説明します」
「それだけか?」
「はい。返金もしません」
一瞬、空気が張りつめた。
だが、続けた。
「ただし、誤解が生まれる表現は修正します。
今後の利用者に同じ不満が出ないように」
役員が言う。
「それで、今の利用者は納得すると思うか?」
「思いません」
「なら、なぜ?」
俺は答えた。
「納得させるのが目的ではないからです」
沈黙。
その沈黙は、歪まなかった。
最終的な判断は、俺の提案通りになった。
小さな修正。大きな声明は出さない。
会議を出ると、スマホが振動した。
例の番号だ。
『今日は、嘘を聞きませんでしたね』
歪みは、ない。
初めてだった。
その文面に、音の違和感が一切なかった。
俺は立ち止まり、ゆっくりと返信した。
『嘘かどうかを、確認しなかったからです』
数秒後、返事が来る。
『それが、あなたの答えですか』
歪まない。
そこで、ようやく腑に落ちた。
この能力は、嘘を暴くためのものじゃない。
判断を、他人の言葉に委ねすぎないための補助だ。
俺は、最後の電話を取った。
問い合わせは想定通り、例の仕様についてだった。
『騙された気分です』
歪まない。
俺は、謝った。
言い訳はしなかった。
返金もしない理由を、淡々と説明した。
電話の向こうで、相手は長く黙った。
『……分かりました。次から気をつけます』
歪まない。
通話を終え、俺は受話器を置いた。
胸の奥が、静かだった。
デスクに戻ると、最後のメッセージが届いていた。
『あなたは、音がなくても判断できますね』
歪みは、ない。
俺は画面を見つめ、短く打った。
『はい。だから、もう大丈夫です』
送信。
既読はつかなかった。
それでも構わない。
嘘の音が聞こえることは、これからも変わらないだろう。
だが、それに頼らなくてもいい。
クレーム対応係の仕事は、
誰かを論破することでも、全員を満足させることでもない。
判断を、引き受けることだ。
俺は受話器を取り、次の電話に備えた。
もう、音が鳴らなくても迷わない。




