灯台の黒猫の灯り
にゃあ。
狩りの時間だ。
あいつの魚、あと一匹、奪える。
「ん?……まだ、食べるのか?」
ぅにゃあん
狩りの声をあげ、首を傾ける。
目を大きく開き、小刻みに震えてみせる。
頭が床まで落ちる。――知ってる。
これで骨まで落ちる。
おれは知ってる。
あいつの顔がどんな時に緩むか。
「…………勘弁してくれよ。これで最後だ。
あとは俺の分だからな」
嘘だな。あと一口、いける。
海辺に赤さびの灯台があった。
黒猫の寝床は、その灯台の傍。
あいつはおれを肩に乗せて、火を灯し、煤を掃き、また火を落とす。
毎日、決まって三度。風の通らぬ古びた小屋に、灯りを抱えて戻ってくる。
背中で嗅ぐ、その香ばしさは、嫌いじゃない。
終わるとおれはあいつから降りる。
あいつはその後日が登りきらないうちに海に糸を垂らす。
ひきあげるとえさがついてる。
こいつがやるのは海の狩りだ。
だが、こいつは狩りが驚くほど下手だ。
海に糸を垂らした後は、いつも海水の味みたいな顔をしている。
けれど、それでも餌は落ちてくる。
だから、好きだった。
とはいえ、こっちも腹は空く。
狩りにぬかりはない。
おれの縄張りの隣は人の群れの縄張り。
そこは鉄の牛が喚く場所だ。
地が揺れ、暑苦しい人間の匂いが満ちる。
ときどき、人間たちは騒いでは、手を空に突き上げて、変な遠吠えをする。
『万歳!万歳!万歳!』
……人間の群れは怖い。
今日も曇った海からあいつが得た糧は僅かだ。
なぁご
今日は立派な魚一匹だけ。
……奥の手だ。
ほれ、撫でるがいい。
「…………あぁ、もう。仕方ないなぁ!!」
あの顔になると、骨まで寄越す。
魚の目玉もな。
あいつは甘い。
こっちの顔が可愛いと勘違いしてる。
だから、勝てる。
食べる間、手が触っても、気にしない。
………しゃー
とはいえ、限度はある。
「もう駄目か。……分かったよ。
……これでしばらくお預けだから、もう少し堪能したかったんだけどな」
手をおれの背中にずしり、と乗せる。
重い。
「赤紙が、来た。」
骨の隙間でこすれたような、割れた声だった。
意味は分からない。でも――撫でる手が、震えていた。
毛並みが乱れるほど撫でまわして、深く息を吐いた。
いつもと違う撫で方と執拗さだった。
「……明日の今頃は従軍列車のなか、か……」
気だるげな様子に、仕方がないのでそのままゆるしてやる。
落ち込んでるやつは、黙ってそばにいてやる。
それが猫の礼儀だ。
日が昇ると、あいつは火落としに、見慣れない格好で現れた。
服から漂う異様な匂いに、思わず背中がぞわりとした。
たくさんの魚を置いて、あいつは踵を返した。
冷たい風が吹き始めたが、まだ係留柱はあたたかい。
遠くの『万歳』の鳴き声を背に、鉄の牛が喚きながら駆け去るのを見送った。
彼方の海は大荒れで、真っ暗な雲と雨柱は今にもこちらにやってきそうだ。
それからあいつを見ることはなかった。
次のやつは近寄るだけで、乱暴に追い払うので寝床を変えざるを得なかった。
……魚を狙ったと、思われたのかもしれない。
でも、そんなことより居心地が悪くなった。
狩りはうまかった。けれど、食うものが減った。
飢えて、軽くなって、牙も鈍る。
撫でられた日々の毛艶はもうない。
あいつの灯りは、とっくに消えていた。
そうして、おれは誰も守りをしなくなった灯台の下で気づいた。
家は灯台。だけどおれの灯りはともらない。
嵐が去ったある陽だまりの日。
人間の群れが、大声の巨獣の前に集まっていた。
何か美味いものでもあるのだろうか。
鉄の牛から、たくさんの人間が吐き出されてきた。
あいつは帰ってきた。けれど、匂いが違う。
あの歩き方だ。なのに、あの目はおれを見ない。
なぜ、見ない? なぜ――忘れたふりをする?
隣の人間と、笑っていた。
駆け寄りかけて、やめた。
尾が膨らみ、心がしぼんだ。
……だけど、ほんとはまだ見てほしかった。
おれは思い出。忘れられる為にここにいる。
――あいつの灯りは、もうそっちでともってる。
風のように走って、また灯台の下に戻った。
そこには、まだ毛並みも生え整っていない若い人間がいた。
……なーぉ
狩りをする。
放られたのは見たこともないような大きな魚。
おれは驚きにしっぽを膨らませた。
あいつより立派な魚をたくさん釣れる新しいやつ。
忘れん坊の新入りには、今日も灯りの道を狩ってやる。
――あいつには届かなくても。
……灯りが、誰かを照らせば、それでいい。