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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ミートソース・スパゲティ

閲覧注意

ややグロあり

思えば不安定な人生だった。町の居酒屋で働いていたがその後にすぐ兵隊に転身した。料理の腕を買われて炊事兵として前線こそ免れたが、上下関係には慣れなかった。

 ほどなくしてある研究室の専属料理人として研究室で働くことになった。給料自体は炊事兵の時よりずっとましだったが、料理人としての仕事より何だかよく分からない廃棄物の処理の仕事が多かった。よく分からない動物の肉をさばいて捨てたり、よく分からない肉塊を処分したりした。時々その肉を料理して出すこともあったが、ひどく獣臭く料理を作るのさえ嫌になるほどのあの臭みは今でも忘れられない。

 終戦してからのごたごたの間に、研究室を抜け出した。他の料理人は終戦後も変わらず金払いの良いあの職場を好んでいたが、私はどうも好きになれなかった。時折聞こえると噂の悲鳴を聞いたことがあるからだ。

 悲鳴の正体についてはついに聞くことが出来なかったが、人体実験であるだろう、というのは料理人の間でなんとなく得られていた共通理解だった。


 各地を流浪した末、あるイタリアン・レストランで拾っていただいた。

 レストランでの仕事には誇りを持つことが出来た。自分の作ったミートソース・スパゲティが子供を笑顔にした時、私まで笑顔になった。それを肴にしてその親がワインを飲んでいるのを見た時、私もほほえましかった。

 結婚したのも、そうした理由だからだと思う。相手はホールで注文を取っていた愛想の良い娘だった。殆ど一目ぼれみたく勢いで結婚までこぎつけてしまったが、多分私と妻の子供を思えば幸せが止まらなかったから、というのもあるだろう。


 ある日、レストランに黒いトレンチコートを羽織って軍帽を被った男が数人、来店した。

 男たちミートソース・スパゲティを注文し、黙って平らげる。

 「おいしかったよ」

 「さようですか」

 「ところで、シェフを呼んできてくれたまえ」

 そう言い付けられたウェイターは、私の名前を呼んだ。ミートソース・スパゲティは私の担当だった。

 軍人たちの前に立つと、一枚の写真が差し出された。それはまぎれもなく私の写真だった。

 「君だね、逃げたネズミは」

 眼鏡をかけていた男がそう言って、同行していた軍人に目配せをする。間もなくして軍人に両腕を掴まれ、店から引きずり出された。抵抗する間もなく外に連れ出され、トラックに乗せられた。待機していた軍人たちは慣れた手つきで目隠しをして、薬を飲ませた。

 「少佐殿、お疲れ様です」

 薄れゆく中で最後に聞こえたその名前は、研究室の上司の名前だった。


 無機質な白いリノリウムの床。頭上で光り続ける蛍光灯。

 典型的研究室の中。手足には枷。ガラスの先から白衣の研究員がこちらを伺っている

 給仕の男が軍人と共に訪れ、肉の塊を目の前に置く。

 抗議には耳も傾けてくれない。立ち上がって抗議しようとしたが、うまく立てず、よろめく。

 肉体が、歪んでいたのだ。

 骨折のような些細な歪みではない。根本的な歪みだ。全身が急激な成長痛に覆われた。熱く焼けただれるような痛みだった。

 足の指は接着されたように固まって動かない。手は体の内側にめり込む。

 どうなっているのかは分からない。だが、少なくとも人ならざるものになろうとしていた。

 もだえ苦しむ姿を見て、研究員たちは嗤っていた。何をすればそんなに嗤われるのか分からない位、ぶ厚いガラス越しに聞こえてくる馬鹿笑いが聞こえてきた。

 「ハハハ、愉快な気味じゃないか」

 とりわけ大きく、薄汚く笑っているのは、少佐と呼ばれたあの眼鏡をかけていた男だった。


 あれから、何日が経ったのだろう。

 人間に戻れる、という淡い思いは刻一刻と崩れ去っていった。人の手は肉の中に潜り込まされ、かつて手首だった部位から新たな手が生えてきた。肉が張り裂ける痛みを伴いながら、醜悪なかぎ爪付の黒い手が生えてきた。

 痛みに耐えかねて暴れ回ろうとすれば警備員がやってきて叩きのめされる。初めは彼らと同じ人の言葉で抗議していたが、彼らの警棒とおぞましい肉体の変質によって、自らが聞くのさえおぞましい唸り声ばかりが出るようになった。

 フライパンをもっていた腕はライオンのようになった。各地を駆けずり回っていた脚は馬のようになっていた。背中からはカラスのような黒い羽根が生えてきた。全身はひどく毛深くなった。

 それでも、何とか人として立とうとして、その度によろめき床や壁にたたきつけられる。白い牢獄から逃げ出そうとするために、或いはせめて人間の矜持を保つために絶食して息絶えようとさえ試みた。それらの試みは却って多くの警棒を招くだけだった。口元に得体の知れぬ肉を運ばれ、それを食う他になかった。


 じたばたと芋虫のように這いつくばりながら、考えるのは家族のことだった。

 次第に朧になる記憶だったが、それでもどうにかこれだけは失わまいと一生懸命思いめぐらせていた。

 はっきり言えばいい父親ではなかった。いつもレストランで夜遅くまで働いて、その給料のほとんどは酒に消えていた。あれだけ好きだった妻とも酒のことでよく喧嘩になったし、娘からも愛想をつかされていた。

 ちゃんと妻と娘の話を聞いていることが出来れば、こんなことにはならなかったのだろうか。酒に溺れないで、もっと一緒に過ごす時間を増やすことが出来れば未来は変わっていたのだろうかそんな後悔が頭の中について回る。それを忘れる手段はこの部屋にはない。

 今にして思えば、私なんかと結婚しない方がよっぽど幸せだったと思う。

 天罰、なのだろうか。これは。


 夜半になって、目が覚める。

 酷い空腹だ。それまでほとんど食欲さえなかったというのに、突然猛烈な空腹に襲われた。

 研究室は薄暗くなっていたが、私を収容しているこの部屋は明るいままだ。監視の警備員二人が退屈そうに煙草を吸いながらこちらを眺めていた。殆ど気絶するように眠りこけていた私の寝姿はさぞ退屈だったのか、何でもない雑談を交わしていた。

 おなかが空いた。胃の中はほとんど空っぽだった。

 どうせ、明日になればまた口を開かされて目の前の肉を食わされるのだ。

 それだったら、今食っても変わらないのではないだろうか。

 頭が、回らない。

 肉。にく。ニク。

 目の前にあるのは、白い大皿の上に盛られた山盛りの生肉。血の滴り、肉の臭い。どんな肉なのか分からない。かぎづめで鼻の前にたぐり寄せてみたが、さばいたことのない肉の臭いだ。

 けれど、関係はない。

 貪る。獣のように貪る。肉の山が床に飛び散る。それをなめとるように貪る。口の中に生肉特有の味が広がる。顔が汚れることもいとわずに、肉を貪り続ける。かぎ爪のついた指では器用に持てなかった。爪を突き刺し、喰らう。何の肉かなんて考えたくもない。とにかく、食いつくすことばかりを考えていた。

 人としての理性は吐かせようとしていたが、胃はすんなりと受け入れていた。身の毛のよだつ嫌悪を覚えても、それでも吐き出させてなんてくれなかった。むしろ舌は、より多くを求めていた。最後の血の一滴まで、貪りつくした。

 

 すべてを食べ終えてから、ガラス一枚で隔てられた先に居る警備員たちの様子を見る。

 彼らは薄気味悪い笑みを浮かべている。ニタニタと、肉に毒が入っていると言わんばかりに。

 「あいつ、食ったんだな」

 「ああ、食った食った。あいつ、食ったんだ」

 彼らの薄気味笑いは何度も見てきたはずなのに、その時の笑いはより一層恐ろしく感じられた。

 きっと、もうほとんど唸り声をあげるばかりの私に、人間が残っていないと思ってのことだったのだろう。獣に話しかけても言葉の意味が伝わらないとでも高をくくったのだろう。簡潔に、私が何を食べていたのか彼らは丁寧に白状した。

 「妻の肉、娘の肉。食ったんだ。あいつ」

 「良かったよなぁ、食ってくれなきゃ俺らが怒られんだから。あいつ生肉は食わねぇって奴だったらどうしようかね」

 「ミートソースにでもしてスパゲティの上にでもかけりゃ、と思ったけどその必要はなかったみたいだな、ハハハ」

 「ああ、でもそっちの方が良かったかもしれんな、ハハハ」

 彼らの笑い声が、ガラス越しに聞こえてくる。

 いつまでも、いつまでも、彼らの笑い声が、耳の中で響き続けた。


――――研究所より見つかった一枚のメモ


「所長へ


 被検体Aの経過は良好です。予定通り、着実に神獣になりつつあります。

 このプロトコルが完遂すれば、確実に計画は前進します。

 やや心理的抵抗の懸念がありますが、計画の進展には問題が無いと思います。

 いい報告ができるまで、あともう少しです。


 個人的追伸

 先月はディナーに誘っていただきありがとうございます。うちの家内も大満足しておりました。

 今度家内と一緒にディナーに行きませんか?いいイタ飯屋を見つけたんです。きっと、閣下も満足すると思います。

 おすすめはミートソース・スパゲティです。あれほどにおいしいものを食べたことがありません。きっと満足すると思います。                               神獣研究局主席研究員 ○○少佐」


おしゃき様に謹んで志納する

 令和七年一月七日

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