母と
はあ、と溜息をついて自室から外を眺めていた。
使用人たちが出会いがしらに世間話をしていたり、白い鳥が二羽ほど飛んでいたり、馬のいななきが風に乗って聞こえてきたり。
これほど穏やかな時間は無い。
こうしてムノで過ごすのもあと数日。王宮に入ればこの土地に戻ってくることはないと思うと、寂しさに苛まれて仕方が無い。
今回この屋敷から王宮へ私が連れて行ける侍女は一人──ラジヤだけだ。
ラジヤと共に行けるのは嬉しいことだったが、他の侍女たちは来られない。彼女以外は王家の侍女たちになる。
そんなラジヤは今から楽しみなようで、毎日のようにテーベに行ったらあれもしたい、これもしたいと思い描いているようだが、私はどんな生活になるのか不安で居たたまれなかった。
「お嬢様」
部屋の扉が開かれ、そこにメティトが立っていた。部屋へ入ってくる風に彼女の髪が揺れている。
「奥様がお呼びです」
「お母様が?」
「お二人でお話をされたいそうです」
最近は王宮に入る準備で目まぐるしく、母と顔を合わせる機会はあったものの、二人きりになることは滅多になかった。
乳母につれられて母の部屋に向かうと、母は私がテーベへ向かう際の衣装を他の侍女たちと決めている最中だった。あれでもない、これでもないと生地を並べて、侍女に更に新しい生地を持ってくるよう命じている。それなりに広い部屋なのに、これ以上持ってきたら足の踏み場がなくなりそうだ。
「ティイ、あなたはどれがいい?」
婚礼衣装は王家のものになるだろうからと、私が王宮に入る際の衣装を仕立てるつもりらしい。
「こっちにいらっしゃい。あなたの衣装なのよ」
あまり服に関心がなかったが、王子から贈られてきた髪飾りや首飾りなどを組み合わせながら母に生地を当ててもらって、幼い頃からよく知る侍女たちと「この色も似合う」「これも素敵」「これはどうかしら」と言われながら囲まれる空間は、何だか気恥ずかしくも嬉しく、そして楽しかった。
一段落ついて二人きりになったのは、私が母の部屋に訪れて一時間ほど経った頃だった。
綺麗に片付けられた部屋で、母は椅子に腰掛けて、「いいものができそうね」と私に声かけて微笑み、私にも隣の椅子に座るよう勧めた。
こうして母と二人で話すのはテーベから帰ってきたあの日以来のことだ。
母は侍女に持たせた水差しから、杯に注がれる水をゆったりと眺めている。
水が水面に当たる音がする。静けさが戻ってきた母の部屋に、その音だけが不思議なほどに響いて聞こえた。
「まさか、私の娘が王家に入ることになるなんて……」
侍女が下がった後、母は杯に口をつけて、そう零した。
「あなたが生まれた時は考えもしなかった」
遠くを眺め、そのあとに私に視線を移した。
「あんなに小さかったのに、もう王子殿下からお妃にと求められるくらいに大きくなったのね」
母がゆっくりと手を伸ばし、私の髪を撫で、そのまま輪郭を沿うように頬を撫でていく。
「私の大切なティイ」
母の呼び声はとても柔らかで優しい。私は幼い頃からその声で呼ばれてきた。
きっと母の目には、私はまだ幼い子供として映っているのだろう。
「王家ではない娘が、正妃に選ばれることは前代未聞です」
心配なのだと言わんばかりの顔だ。
「お父様はこの家の地位を守るために、王子殿下からの申し出に即答しています。正妃となったあなたの立場を……王子の義父という立場を得ることになる。そうなれば夫と父親の板挟みにされて、あなたが苦しむこともあるかもしれない」
父は私の気持ちなどひとつも聞かずに王子からの要請を受けた。それはすべてこの家を守るため。
私が正妃になった後、父は王子の義父という立場を利用しようとするのは想像に難くない。兄たちも同じだろう。
今までであれば、私も父が望むままに家のためになろうとしてきた。
だが、それでもし、王子である彼に不利が生まれることがあれば、私は──。
「それに、今のファラオもそうですが、あなたの夫となるお方にも驚くくらい多くの側室がいると聞いています。その中で、あなたは夫を支えていかなければならなくなる……」
それはきっと大変だろうと漠然と思う。まるで他人事のように。
父にもテーベや他の都市に側室を持っていると噂には聞いていた。父ですらそうなのだから、王族となれば沢山いても驚くものでもない。
ただ、自分の他に妻がいる人を夫にするということ自体があまり飲み込めていないのも事実だった。
「お父様にどれだけ他に女性がいたとしても、私が正妻としているのは、アネンやアイ、そしてあなたを産んだから。あなたはおそらく、私よりも子を産むことを望まれるはず。それは想像以上の重圧になる……」
子供を産んで初めて、正妻としての立場を確かなものにできる。
「私は、あなたが辛い思いをすることが、何より一番怖い」
母は祈るように私に告げた。
娘のことを、心から心配してくれていると分かって目頭が熱くなる。
家のことよりも、何よりも私のことを気に掛け、私の未来を案じてくれているたった一人の母に、私は会えなくなってしまうのだ。
「お母様」
母の手を両手で包み、母を見つめた。
「彼……王子殿下は、私のことを好きだと言ってくれたの」
漠然とした不安がある。それでもテーベに行くことを嫌だと思えないのは、あの人が待ってくれているからだ。
「馬に乗るところも、勉学を好むことも、剣を振り回すところも……ありのままの私を好きだと言ってくれたの。そのままでいいと言ってくれたの。私もその人のことを同じように思う。同じように好きだと思う」
好きになった人が、たまたま王家の人だった。私にとってはそれだけの話なのだ。
「ご側室の方々のことや、子供を成すことは実はまだぴんと来てなくて……お母様がそれほど心配するのだから、きっと悩むことにはなるとは思うのだけど」
王子が諸外国から王女たちを貰い受け、多くの側室がいることは私もよく耳にする話だった。
「それでも、あの人の傍に行きたい。お父様に命じられたからとかじゃなくて、それ抜きにしても、私はあの人のもとへ行きたい」
彼は、他国の王女たちと同じ側室の身分ではなく、正妃というただひとつの身分を私に与えてくれるという。きっとあの人も私と同じように、私を特別に思ってくれているのだと思う。たとえそうではなかったとしても、私はそう信じていたい。
「ティイ……」
母の瞳が揺れる。その手をまた私の頬に添えた。
「お父様が私に何を命じようと、あの人を困らせるものだったらきっぱり断るつもりよ。お父様が王家よりも偉くなるはずなんてないもの」
父たちが王家を使って暴走するようなことがあったら、止められるのは私だ。
家のことも勿論大切だが、王家を一人支えていくことになる彼の妻になることを思えば、私が彼の一番の味方にならなければならない。
「もし王子殿下の身に危険が及ぶことがあるのなら、親子の縁を切ることもあるかもしれない」
半ば冗談に言ってのける。
「もし、もしね、そうなってしまっても、お母様だけには手紙を書くわ」
母の足元に膝をついて、母の膝に頬を寄せた。
「お母様、私を彼が好きだと言ってくれた私を、今の私を、育ててくれて感謝しています」
私が自分らしさを失うことなく育ったのは、母が私のやることなすことにある程度目を瞑っていてくれたからだ。
「私をできる限り自由に育ててくれてありがとうございます。だからこそ、私は彼に出会えたのかもしれない。好きだと言われたのかもしれない」
母がなければ今の私はなかった。
父の書物を漁っているのが分かっても、外で遊んでいることを知っても、母はある程度見逃してくれていた。危ないときや危険なことをしそうなときだけ、止めてくれた。勿論母の想定外だったこともあっただろうけれど。
私の辿々しい言葉を聞いた母は、眉を下げて柔らかく微笑んだ。
「ティイ、あなたはどこへ行っても私の大事な娘よ」
自分を見つめる母の瞳が好きだ。
「母のことを、忘れないで。どこにいても何があってもあなたの味方ですからね」
私を強く抱き締めてくれる。この母の柔らかさが好きだ。
「身体に気をつけて」
「お母様も」
母の腕の中でぐっと目を閉じる。母の香りで世界が満たされる。
「幸せになって。いつまでもあなたらしくいて」
見上げた先の母は、目に涙を溜めながら笑ってくれた。




