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太陽を抱く君へ  作者: 雛子
序章
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男装の娘

「女みたいに髪を長くしてるくせに、なんでそんな強いんだよ」


 泥だらけでパピルスの茂みに倒れている相手の捨て台詞に鼻で笑って見せた。相手を投げ飛ばした手を、大袈裟に音を立てて払ってから、腰元に手を当てて胸を張る。


「女みたいでも、そんなことは強さに関係ないってことだよ」


 兄の口調を真似て言い放つと、相手は唇を噛んだ。


「さあ、次の相手は?」


 たった今、私に倒された少年の友人二人が後ずさる。俺は行かない、やらないと仲間たちに目で訴える。


「ああ、もう!」


 尻餅をついていた少年が勢いよく立ち上がった。


「今日はもう終わりだ!終わり!」


 そして私に向って指さした。


「次こそは勝ってやるからな!」


 負け犬の遠吠えのような台詞を吐き並べ、彼らは固まって走っていった。

それでも次こそはと挑戦的に笑って見せるから、次も負けるものかと身が奮い立つのを感じた。たまにしか会えないが、良い遊び相手であるのは確かだ。けらけらと笑いながら明らかに近所の子供ではない私を相手にしてくれるのは素直に嬉しい。


 彼らの姿が見えなくなってから大きく息をついて、そろそろ帰らなければ怒られるだろうかと空を仰いでぼんやり考えた。彼らが帰ると言ったのも陽が傾き始めたからだろう。それでもまだ帰る気になれない。久々に外に出られたのだから簡単に戻りたくない。

 昨夜、宴の席で聞いたハープの曲を口ずさみながらナイル沿いを歩く。頭部に巻いていた布を取り去り、隠すために結い上げていた髪を解いた。自分の波打つ黒髪はばらばらと下に垂れていく。こんな長い髪を切ってしまいたいと思う。そうすれば女みたいだと言われることなく男装できる。でも母はそれをよく思わない。

 少し汚れてしまった借り物の衣を払った。

 女の成りより、男の成りの方がずっと動きやすいから好きだ。


 ナイルの畔をしばらく歩いて行って、途中に見つけた岩場によじ登る。登り切ったそこに腰かけてぶらぶら足を揺らした。

 ナイルの水面がきらきらと輝く中に小さな船が通っていた。漁師だろうか。今の自分なら、ここからナイルへ飛び込み、あの船まで泳いでいける気がした。泳ぎは昔から得意だ。

 岩場をするすると降りて、水面のぎりぎりのところまで進むと、鏡のような水の上に自分が映った。衣の裾を捲って足先をつけてみれば、透明な円が私の爪先を中心に広がっていく。

 すると、名前も知らない魚がすいっと広がって消えていく円を避けるように泳いでいった。太陽の光を反射して、まるでナイフのような煌きをこちらに見せつける。

 パピルスの緑に、ナイルの青はとてもよく似合った。そこにきらきらと光る魚たちが空を自由に泳ぐかのように横切っていく光景は、幼い頃に父とテーベで垣間見た神殿の壁の絵のように美しい。うっすらとしか残っていない記憶の中で、その美しさだけは今でも鮮明に蘇る。

 唐突に風が吹いて、しばらく水面を見下ろしていた視線を空へ上げた。頭上を名も知れない鳥が飛んでいた。羽をぴんと伸ばして優雅に太陽に向かっていく姿はこの世のものとは思えない威厳がある。

 惹かれるように降りてきた岩場の頂上まで素早く上り詰め、鳥の姿を凝視する。

 あれは王に例えられるハヤブサだろうか。ならば、あの威厳のある鳥はもしかしたら、古の王の魂だろうか。

 私を取り囲むものすべてに神が宿っている。神がいて、私たちに恵みをもたらしてくれる。いつだったか、一番上の兄が教えてくれたことだ。

 鳥がどこまで飛んでいくのかを見届けたくなり、勢いに任せて立ち上がり、岩場の頂に二本の足で立った。

 そこから見えた世界は、知らないことで世の中はあふれているのだと私に教えてくれるのに十分だった。この先へどこまでも行けたなら、一体自分はこの目に何を見ることが出来るのだろう。この先への興味が湧いて仕方がない。


「そんなところにいないで降りなさい」


 自分にかけられた声のような気がして下を覗くと、岩場下のパピルスの中にパピルスを刈っていたらしい老婆がこちらを見上げていた。


「お嬢ちゃん、そんなところで何をやっているの」

「あら、私が女だと分かるの?おばあさん」

「どう見ても女の子じゃないか。どうして男の成りなんてしているの」


 見る人によって、この姿の私は男にも女にも見えるのだろうか。私の変装の技術はまだまだ未熟なようだ。


「女の子が登るところじゃないよ。さ、早く降りておいで」


 老婆は私を岩場から降ろすことに必死なようだった。母がここにいる私を見たら、この老婆以上に驚いて悲鳴をあげるに違いない。


「今降ります。降りるからおばあさんはそこにいて」


 降りてこないならば自ら登ろうとする老婆を慌てて止めて、私はするすると岩場を降りて見せた。


「まあまあ。顔を汚して」


 私が降り立つなり、汚れていたらしい頬を手でこすられる。


「おや」


 彼女の目が私の目元を捉えた途端、頬の汚れを擦っていた手が止まった。


「お嬢ちゃん、綺麗な目をしているねえ」


 私の目のことだと知って、咄嗟に相手から目を反らした。


「ここらじゃ見ない色だ」


 分かっている。

 私の瞳の色は、両親や二人の兄とは違う色をしている。


「太陽の色だね」

「ありがとう。でも私、この色、好きじゃないの」


 あまりこの目のことを言われるのは昔から好きではない。周りとは違うから。

 おやまあ、と息を吐くように言った相手はやがてゆったりと微笑んだ。


「とにかく、女の子なのだから、あまり危険なことはやってはいけないよ」


 老婆の苦笑する顔に小さく頷く。


「お嬢様!」


 突然背後から聞き覚えのある声が響いた。明らかに怒りを含んでいる。


「げ」


 振り返り、自分を呼んだ声の主を見るや否やカエルのような声が出た。

 広い肩幅に、白髪の混じった髪。きっちりと着こなされた衣がナイルからの風にひらひらと靡いている。


「またお一人でこのような所に!!」


 明らかに化け物の形相の乳母メティトだ。

 ぽかんとした顔の老婆を視界の端に逃げ出そうとすると、父に雇われた屋敷の従者たちがパピルスの茂みからまるで魔術のように次から次へと現れて、私を逃がすまいと取り囲む。


 ああ、もう。

 逃げる隙間がどこにもない。


 乳母は私のすべてを見通しているらしい。


「お嬢様を連れ帰ります!!」


 メティトのはきはきとした声は蒼天をも貫くように響いた。



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