故郷(ホーム)
初投稿です。どうぞよろしくお願いします。
「小説家になろう Thanks 20th」参加作品です。
夜勤明けで帰宅すると、リビングのテーブルの真ん中にガラスの大きなピッチャーが出ていて、その中で、何かがふわりと揺れるのが見えた。
近づいて覗いてみると、小さな金魚が一匹、水の中を泳いでいた。
「お隣の人から貰ったの。お祭りの金魚すくいで、お子さんが捕まえすぎてしまったんですって」
たずねる前に、キッチンから顔をのぞかせた彼女が答えた。
「それ、大きすぎて冷蔵庫に入らないし、丁度いいでしょう? 持ち手があるから、水換えもしやすそうだし」
何を聞かれているのかすぐに分からなくて、黙っていると、彼女は更に言葉を続けた。
「もしかして、ダメだった?」
「いいや、そんなことはないけれど、ただ・・・」
僕は彼女の言葉を思い出しながら、慌てて返事を考えた。
そうだ、これは金魚の入れ物についての話だ。
「ただ、この入れ物でいいのかなと思って。ええっと、金魚にとって」
ピッチャーにとって金魚はどうかとも思ったけれど、それは口にしない。
「お店で売っている小さめの金魚鉢よりは大きいから、いいんじゃない?」
確かに金魚にしてみたら、金魚鉢もピッチャーも住み処として大差無いだろう。
そして、彼女の言うとおり、大きい方がきっと快適だ。
「うん。そうだね。とりあえず」 僕はそう答えて、椅子に荷物を置いた。
「金魚は何を食べるの?」
「金魚のエサじゃない?」
「そうか。他に何か必要なものはあるかな」
「水草と、底に敷く小石かな。みんなスーパーのペットショップにある筈だけど、小石は買わなくても海岸で拾ってこればいいかな」
「場所は分かる?」
「うん、散歩で何回か行っているから」
「じゃあ、一休みしたら、石拾いと買い物に行こう。着替えてくる」
僕は着替えに寝室に向かった。
§§§
彼女とつきあい始めたきっかけは、転勤が決まった僕の送別会だった。
当時の職場では、僕と彼女はただの仕事仲間だった。
僕は彼女のことが気になってはいたけれど、あくまでも仕事上のつきあいだけで、いつだって『適切な距離』を保つように心がけていた。転勤が多い僕は、勤務地限定で働いている彼女にとっては対象外だろうと思っていたから。
でも、送別会の酒の席で、「次の任地は海の近くで、歩いて海に行けるみたいです。」と話したところ、「いいですね、うらやましいです」と彼女が返してくれたので、少しだけいたずら心が起きた。
きっと、これが彼女と話す最後になるんだろうなと思い、冗談半分で「じゃあ、一緒に来ますか?」と言ってみたところ、驚いたことに、「はい、是非!」と即答された。
冗談か本気か確かめる間もなく、宴会は大いに盛り上がり、そしてその流れのまま、彼女とお付き合いをして、彼女が仕事をやめて、二人で一緒にここに来ることになった。
ガラスのピッチャーは、そんな唐突に付き合い始めた僕たちを祝福して、同僚がプレゼントしてくれた物だった。
新進気鋭の作家の一点物で、それなりに高価な物らしいのだけれど、真ん中が大きくふくらんだその形は、僕の冷蔵庫にはどうにも収まりが悪かった。そして何より大きすぎた。そんなわけで、ずっと持て余していた物だった。
上着を脱ぎながら、僕は窓の外に目を向けた。
窓の外の日差しは案外強い。僕は半袖シャツを選んだ。
部屋を出ると、「暑くなりそうだから」と、まずはコンビニへ。
そこでお茶を一本ずつ買って背中のリュックに入れた。
道案内を頼むと、「真っ直ぐ海に向かう県道と、川沿いの堤防を歩く大回りの道があるけれど、どちらがいい?」と聞かれた。
川沿いの方が景色がよさそうだとは思ったけれど、今日でなくてもいいかと思い、「近い方がいいかな」と答えた。そして、日差しを遮る物の無い、県道沿いのアスファルトの歩道を、海に向かって二人で歩き始めた。
三十分ほどで海沿いの道に出た。それを越えて、僕等は浜へと下りた。
初めて来たその浜は、ひどく歩きにくい場所だった。
砂や石の大きさは場所によってまちまちで、大きめの平たい丸い石が積み重なっている所もあれば、小さな砂粒ばかりの所もある。
平たい石が多いところは、不安定で足を取られて意外と歩きにくいし、小さな砂粒の上り坂は、歩く度に足元の砂が崩れて下にずり落ち、なかなか前に進めない。
刺すような日差しの下、息が上がりそうになるのを隠して歩く僕の隣を、彼女は慣れた様子で軽快に進んで行く。
とにかく、目的を果たさなければ。
郵便局の金魚の水槽に敷いてあった小石を思い出しながら、僕は似たような大きさの石を探した。波打ち際から少し離れたところに、丁度よさそうな小石が連なっていたので、二人でそこに腰を下ろした。
お茶を持ってきて良かった。
ペットボトルの蓋を開けて一気に飲み干すと、僕は少し休憩する事にした。
まだまだ元気な彼女は、お茶を飲み終わると、靴を脱いで海に向かって歩いて行った。
彼女は本当に海が好きなようだった。
ここに海があってよかった、と僕は思った。
僕はこれまで、転勤の打診があると、言われるままに引き受けてきた。
インターネットとコンビニがあれば、僕はどこでも生きていける。だから、任地の選り好みをする必要はなかったから。
けれども、波打ち際を素足で歩く彼女の姿を眺めながら、ふと思った。
次の勤務地に海はあるのだろうか、と。
なんとなく、視線を足元に落とした。
そして、投げ出していた自分の両足の下の景色に違和感を感じた。
よく見ると、白、黒、灰色、茶色といった見慣れた色合いの小石の中に、赤や緑のつややかな小石が混じっていた。
それは、僕にとっては予想外の色彩だった。
僕は 咄嗟に振り返って、周囲を確認した。
目に入ったのは、ここまで歩いてきたアスファルトの道路と電信柱。そして、その両側に広がる田畑と、点在する古びた民家や倉庫。そして、遠くには、白くかすんで見える、木々に覆われた高い山々。
見慣れた景色だ。
けれども、視線を落として再び足元を見ると、そこにあるのは、やっぱり僕には馴染みの無い色彩で・・・
「どうしたの、難しい顔をして」
いつの間にか戻って来ていた彼女が尋ねた。
「どうもしないけれど・・・」
「そんな風に見えない。仕事明けだし、疲れてる?」
そういう事にしてもいいかと思ったけれど、どうやら僕は本当に疲れていたらしい。いつもなら適当に話を合わせられるのに、頭が回らなくてそれが出来なくて、結局、思っていた事をそのまま口にしていた。
「石の色が綺麗で、驚いたんだ」
それを聞いた彼女は、よく分からないという顔をして隣に腰を下ろしたので、僕は更に詳しく説明することになった。
「ええっと、つまり、僕の故郷の川や海には、こんな、赤や緑の石は無かったんだ」
足元から小石をいくつかつまみ上げると、それを彼女に手渡した。
「僕はこれまで、ここは故郷と大して変わらない所だと思っていたんだけれど、これを見て、そうではない事に気付いた。ただ、それだけの事だよ」
それだけのことだ。
ここは、僕の故郷ではない。
元より分かっていたことだけれど、足元の小石の色は目に見える形で、僕にそれを知らしめているようだった。
僕はもう一度振り返ると、遠くの山々を眺めた。
この赤や緑の小石は、川の流れに乗って、きっとあそこからやって来たのだろう。あの山の草木の下には、僕の故郷の山とは違う色の石が隠されている。そう考えると、足元だけではなく、目に見える景色の何もかもが、僕が知っているものとは違うような気がした。
いつの間にか、僕は随分遠くまで来ていたようだ。
故郷を離れてからもう何年も経っているのに、僕はそのことに、いま初めて気付いたのだった。
それに、隣に座っている彼女も、もともとの僕の世界には無かったものなのだ。
ふだん自分が意識していた以上に、僕の世界は変化している。
ぼんやりとそんなことを考えていて、ふと気がつくと、彼女がじっと僕の顔を見ていた。何か聞かれるだろうかと思って彼女が口を開くのを待っていたけれど、彼女はそれ以上何も尋ねず、その後、まるで「分かった」とでも言うように黙って二度頷いた。
それからは特に何も話さず、二人で金魚のための小石を拾い集めた。
コンビニのビニール袋に詰めた小石をリュックに入れて背負うと、太陽の熱を貯め込んだ小石が、最近ガタが来ていた僕の腰骨をじんわりと温めた。
帰りは道を変えて、河口近くから堤防に登り、河原の石を下に眺めながら歩いて町に戻った。その道すがら、なんとなく、僕の故郷の事をポツポツと話した。ここと大して変わらない田舎町なので、話題はすぐに無くなってしまったけれど。それで、彼女の故郷の石の色を尋ねてみたけれど、「覚えていない」と彼女は笑うだけだった。
町に戻ってからは、いつものファーストフード店で昼食を済ませて、スーパーで買い出しをして、ペットショップで金魚鉢を物色したけれども結局保留にして、そこで金魚のエサと水草を買った。
そして、部屋に戻った後は、シャワーを浴びてから昼寝をした。
§§§
夕方目覚めると、洗面所で彼女が小石を洗面器に入れて洗っていた。
ゴミを取り除いて塩抜きをするのだと言う。
その手元をのぞき込むと、赤と緑の小石が、洗面器の端の方に除けてあるのが見えた。
「それ、どうするの?」と尋ねると、
「無くてもいいんじゃないかと思って」と彼女は答えた。
さきほどの僕の態度に、何かを感じたのかもしれない。
どうやら彼女は、僕の故郷には無かった色を取り除こうとしているようだった。 きっと僕に、部屋で居心地よく過ごして欲しいという、彼女なりの優しさなのだろう。
けれども僕は、それをありがたいと思うのでは無くて、逆に、「分かっていない」と苛立たしく感じた。そして気が付くと、彼女の背後から手を伸ばして洗面器を取り上げて左右に揺すって、端に除けてあった小石を元の場所に混ぜ戻していた。
「ちょっと、」
彼女が抗議の声を上げて振り返った。
僕はそれを無視して、さらに強く揺すった。
彼女はほんの少しのあいだ僕を見上げていたけれど、やがて、何も言わずに視線を洗面器の方に戻した。
洗面台の鏡には彼女の姿が映っていたけれど、うつむいているその表情は見えなかった。
二人とも何も話せなくて、気まずい空気が流れていた。
蛇口から洗面器にポタポタと落ちる水音が、やけに大きく聞こえた。
彼女は、僕の気持ちを分かっていない、と思った。
彼女と一緒にいる「今」を、僕がどれほど大切に思っているか、分かっていない。故郷の景色なんかより、彼女といる「今」の方がずっと大切なのに。
故郷にない色の石を取り除くことは、まるで彼女と過ごす「今」を損なうようで、どうしてもイヤだった。
たとえそれが彼女の優しさだとしても。
もちろん、彼女が分かってくれていないのは、僕がきちんと言葉で伝えていないからだ。
そんなことは分かっている。
分かってもらうためには、伝えなければいけない。
それも分かっている。
けれども、なし崩しに始まった関係の中、一緒に過ごしていても、僕には彼女の心の底がまだよく分からなくて、余計なことを言って彼女の負担になりたくなくて、いつだって肝心なことを言い出せないのだ。
僕は、どこまで彼女に期待して良いのだろうか?
今だけではなくて、未来も望んでもいいのだろうか?
海がなくてもいいのだろうか?
彼女の顔を見られないまま、僕は洗面器を握る手に力を込めた。
そして、言葉を探した。自分の気持ちを伝える、でも彼女の負担にならない範囲の言葉を。
「ありがとう。でもこれは、このままでいいんじゃないかな・・・
だって、僕達は、今ここにいるのだから・・・・、そうだろう?
僕は、、、今のままがいい。」
なけなしの勇気を振り絞って僕が口に出来たのは、それだけだった。
僕は、彼女の肩口に額を埋めた。
彼女の肩が揺れた。
分かった、と頷いてくれたみたいだった。
今度こそ、通じていると良いのだけれど。
翌日、仕事から帰ると、金魚の住み処のピッチャーの底に小石が敷かれていた。
白、黒、灰色、茶、赤、緑。
僕の故郷の川や海より色数が多くてにぎやかだ。
これでいい、いや、これがいい。
間に合わせのピッチャーの家に、現地調達の小石の絨毯。
僕ら二人の故郷は、いま、ここから始まる。
お読み頂き、ありがとうございました。




