201 場にそぐわない話題
藤城皐月が居間にいると、及川祐希が制服姿で現れた。
「祐希、おかえり」
「ただいま。……あれっ? 皐月、制汗剤つけてる?」
「あっ、わかった? クラスの女子から借りてつけたんだ。何種類か試してみたから、匂いが混じっているかもしれない。匂い、まだ残ってたんだ」
「大丈夫だよ。そんなに匂いは残っていないし、いい香りがするよ」
祐希は皐月のついた嘘を簡単に信じた。祐希の反応を見て、小百合から明日美のことを深く追及をされることはないだろうという楽観的な見通しが立った。
祐希が制服を着替え終わって居間に戻ってくると、小百合と頼子が夕食を運んできた。祐希が配膳の手伝いを始めたので皐月も手伝おうとしたが、この日は品数が少なかったので皐月の出番はなかった。
テーブルにはビーフシチューとコンソメスープ、アボカド入りのサラダにガーリックトーストが広げられた。
皐月は大蒜が苦手なので、大蒜をつけないでバターを増し増しにしてもらった。小百合と頼子には赤ワインが、祐希と皐月にはノンアルコールの赤ワインが用意された。
「今日はお座敷がないから、頼子と一緒に洋食屋みたいな夕食にしようって作ったのよ」
「まあまあ本格的よね。デミグラスソースを使っちゃったから、あまり偉そうなことは言えないけど」
「でもこんなの、今まで家で作ったことなかったな」
「私も。忙しいとじっくり煮込むなんてできないもんね」
「大勢で食べると思うと、作ってて気合が入るよね」
「そうそう。祐希と二人の食事だと、つい簡単に済ましちゃおうって考えちゃう」
ワインを飲みながら作ったからだろうか、二人のテンションがいつもよりも高い。祐希と顔を見合わせると、二人が楽しそうで良かったという思いが通じ合ったような気がした。
出された料理は何もかもが素晴らしかった。ビーフシチューの肉はとろけるほど柔らかかった。皐月が一人で晩御飯を食べていた頃、レトルトのビーフシチューを食べたことがあったが、それとは全然比べ物にならないくらい美味しかった。
「今日の晩ご飯、めっちゃ美味しいね。ママでもこんな料理、できるんだ」
「頼子がいてくれたからね〜。あと、材料もいいの使ったから」
「私が安いお肉を買おうとすると、小百合が『今日はいいお肉を食べましょ』って言って、和牛をかごに入れるのよ。そんな高いお肉なんて買ったことなかったからびっくりしちゃった」
「短期売買の株で利益が出たからね。ちょっとくらい奮発してもいいかなって思ったの」
小百合はタクシー乗務員の永井の勧めで株式投資をするようになり、時々利益を上げるようになった。頼子が家に来る前は仕事をセーブしていたので、株式での利益が家計の足しになっていた。
そんなに儲かるなら、芸妓なんかやめて家で株をやればいいじゃん、と小百合に言ったことがある。だが、今はたまたま時期がいいだけ、と素っ気ない返事だった。
「皐月、さっきお母さんから『明日美の稽古の邪魔をしてこい』って言われたみたいだけど、それってどういうこと?」
「お母さんが言うには、明日美が昼に検番に来てから夕方まで休みなしで稽古してたんだって。で、心配になって『少しは休んだら』って言うと、怒るんだって。明日美は疲れてて、気が立っていたのかな。で、お母さんに『私の言うことなんて聞いてくれないから、皐月お願い』って言われたんだ」
「そう……」
小百合の顔が曇った。母は明日美の病気の詳細を知っているのだろう。京子と同じ心配顔をしているからだ。
「明日美って心臓の病気だったんだね。ママ、知ってたんでしょ? どうして俺に教えてくれなかったの?」
「……あんたに明日美のことを聞かれたのは、頼子たちが引っ越して来た時だったわね。あの時に話せるようなことじゃなかったからね」
「『あんたは知らなくていい』なんて言われたから、ずっと気になってた」
「あの場にはそぐわない話題だったから、ちょっと強引だったけど話を打ち切ったのよ」
「そっか……それもそうだよね」
ここはしおらしく、一度引くことにした。
皐月は祐希が帰宅して着替えをして下に下りてくるまでの間に、慌てて明日美の病気のことを調べていた。京子から病名を聞いていなかったので、ぼんやりとした知識しか得られなかったが、命に関わることと、完治はしないことだけはわかった。明日美の病気は皐月の想像以上に重く、深刻だった。
これ以上深掘りして明日美の病気のことを聞くことはこの場にはそぐわない。時を改めて明日美の病名を聞けばいいと思った。だが、聞いたところで安心できるようなことは何もなさそうな気がするので、知りたくないという気持ちもある。




