198 老芸妓の安堵
明日美が化粧を直している間、藤城皐月は検番の二階の稽古場の開け放たれた窓を閉めていた。
最後の窓を閉める前に明日美の真似をして、窓辺に座って欄干に手をかけて窓の下を見た。もう小学校の最終下校時間を過ぎている。こんな時間に眼下の小径を通る人は誰もいない。
「皐月はいい男だね。写真撮らせてもらってもいい?」
「いいけど……」
皐月が小さかった頃はよく明日美に写真を撮られていたが、最近は全然そういうことをされていなかった。
「俺も撮らせて。今の明日美のラフな感じ、すごくいいから」
皐月はまだ明日美の写真を一枚も撮ったことがない。
「え〜っ、恥ずかしいな。どうせなら芸妓になった私の写真を撮ればいいのに」
「俺はお座敷の客じゃないから、そういうのはいらない。今の素の姿の写真が欲しい。それに今日は俺にとって大切な日になったから」
「そうだね……」
ランドセルからスマホを取りだして、明日美の写真を撮った。これが皐月にとって初めての明日美の写真になった。
帰る準備ができた明日美が着物を入れたキャリーケースと三味線ケースを手に取った。明日美にならって皐月もランドセルを背負うと、明日美から悲鳴のような声が上がった。
「私、ランドセルを背負っている子とあんな事してたんだ……」
明日美がバツの悪そうな顔をして照れ笑いをしている。ひとつ結びを下ろした明日美はすっかり大人の女性になっていた。
「それを言うなよ。このガキにしか見えないアイテム嫌いなんだ、俺」
垢ぬけた明日美を目の前にして、小学生の皐月は猛烈なコンプレックスに襲われた。自分が明日美と不釣り合いな子どもであることを思い知らされ、泣きたくなってきた。
気が緩むと涙が出そうな気がするので表情筋に力を入れていると、明日美が近付いてきて軽くキスをした。明日美は親指でサッと唇についた口紅を拭い、優しく微笑んだ。
「もうすぐ私よりも背が高くなるね。早く大きくならないかな」
「小さい子どもの俺が好きだったくせに」
「ふふふ。気が変わったのよ。今は早く大きくなってほしい。でも今の成長過程の皐月も好きよ」
「なんだか中途半端じゃない? 今の俺って」
「そんなことないよ。皐月は今が一番輝いている。それに将来が楽しみでいいじゃない」
明日美は穏やかに微笑んでいるが、皐月はそんな明日美に強さと妖艶さを見た。明日美こそ今までと別人になったように見えた。
「そのランドセル姿の写真、撮っちゃおうかな」
「うわ〜っ、意地悪なこと言うなぁ……」
「いいじゃない、かわいいんだから。私の宝物にするから撮らせてよ」
「んん……。じゃあいいよ」
「ありがとう」
撮った写真を見せてもらうと、自分がすっかり大きくなっていることを知った。ランドセル姿は恥ずかしかったけれど、ランドセルが似合わなくなった自分は確かに少し格好良くなっているような気がした。
急な階段を気をつけて下り、明日美は階下にいる老芸妓の京子に帰りの挨拶をした。
「お母さん、心配かけてごめんなさい。皐月が休ませてくれたから、すっかり元気になりました」
「そうかい。そりゃよかった」
「これからはもう少し自分の身体をいたわるようにします」
「そうだよ。命あっての物種って言うからね。具合が悪かったら隠さずに言うんだよ。知らずにあんたに無理をさせちゃうようなことはしたくないんだからさ」
「はい。私もこれからは無理するのはやめたいなって考えるようになりました」
京子の目に安堵の色が見えた。親が子を心配しているような顔をしている。皐月は京子の心配がこれほど深いものだとは思っていなかった。
「これからは仕事を選んでいかないといけないねえ。少し仕事を減らすよ。いい?」
「はい。わかりました」
「おや? 私はてっきりあんたに怒られるかと思ったよ」
「そんな……怒るわけがないじゃないですか。お母さんが心配してくれてるのに」
「よく言うよ。いつもはもっと仕事を入れろって言ってるくせに」
すっかりいつもの京子と明日美に戻っていた。皐月はずっとこの二人のことを親子みたいだと思って見ていた。それは明日美の師匠が京子だからなのだろう。母と師匠の和泉の関係もこんな感じだ。
「もう仕事中心の生き方はやめようって思って……。なんだか急に長生きしたくなっちゃって」
「そりゃいいことだ。あんたもようやくそんな風に考えられるようになったんだね……。明日美、私みたいなババアより先に死んだら許さないからね。あんたみたいないい娘は幸せにならなきゃ駄目なんだから」
「はい。ありがとうございます」
皐月は明日美と京子の会話に驚いた。明日美の病気がそこまで深刻なもので、今でも注意が必要なものだとは思っていなかったからだ。検番に来て京子から明日美の病気のことを聞くまでは、皐月は明日美がすっかり完治したものだと思っていた。




