196 大きくなったらダメなのかな?
稽古が終わり片付けも終わったのに、明日美は帰ろうともせず、部屋の片隅に座っていた。さすがにちょっとおかしいと思い、隣にいた藤城皐月は明日美の体調が心配になった。
「今日の明日美、ちょっと元気がないみたい。疲れてる?」
皐月が心配そうに明日美の顔を覗き込むと、明日美はふっと優しく微笑んで皐月の肩を抱いた。
「私もとうとう子供に心配されるようになっちゃったか……。大丈夫だよ。稽古を頑張り過ぎただけだから」
この日、初めて明日美に抱き寄せられた。皐月はこの瞬間をずっと待っていた。
明日美の温かく柔らかい身体に身を任せていると、汗の匂いと制汗剤の匂いでうっとりしてしまう。胸がときめいて鼓動が速くなっているのに、不思議と心は安らいでいる。
しばらく幸せを味わっていたが、ふと我に返る瞬間、いまだに子供扱いをされていることに気が付いた。少し確かめてみたいことがあり、明日美に拗ねてみようと思った。
「ねえ。俺、もう子供じゃないよ」
「……かわいいこと言うね。皐月はまだまだ子供だよ」
髪に軽くキスされたような気がした。明日美に抱かれながら窓の外を見ていると、いつの間にか日の落ちるのが早くなっているのに気が付いた。
「背だって、前に会った時より2センチも伸びたよ。明日美なんかすぐに追い抜いて、上から見下ろしてやるから」
開け放たれた窓から入る涼風が気持ちがいい。もう秋だ。
「そういうところが子供っぽいんだ。……でも皐月に見下ろされるのは楽しみだよ」
皐月はもっと明日美に身体を寄せ、グイッと顔を近づけた。甘い香りが鼻腔をくすぐり、隠そうとしていた男の本能が呼び起こされてしまった。
「あのさ……俺、わざと子供っぽくしたんだよ。明日美って俺が子供っぽくないと抱きしめてくれないだろ?」
明日美の身体を引く予備動作を察知し、自分から先に少しだけ身体を引いて距離を取った。気取られたかと思い、恥ずかしかった。
「皐月って本当に雰囲気が変わったね。なんだか男っぽくなった。変に色気が出てきた」
「ホント?」
「うん」
明日美があまり嬉しそうじゃないのが気になった。褒められたつもりでいたが、本当はしくじっていたんじゃないかと不安になる。
「どうしたの?」
「皐月があんまり格好良くなると、もう今までみたいにかわいがれなくなるな……」
「えっ? なんで?」
「だって皐月が小さい子供だったからかわいがってたんだよ。でも、さすがに大きくなったらベタベタできなくなる」
「なんでだよ? 言ってる意味がわかんない」
「青少年の教育に悪いでしょ、そういうのって」
「真面目かよ。学校の先生みたいなこと言うな」
「もう今までみたいな関係ではいられなくなったってこと」
明日美にはっきりと拒絶され、すうっと血の気が引くのを感じた。皐月には明日美の理屈がわからない。だが明日美が皐月から離れようとしていることはわかる。
「俺……大きくなったらダメなのかな?」
「そんなの……いいに決まってる」
「じゃあ、格好良くなっちゃダメ?」
「ダメなわけないでしょ」
「じゃあどうして突き放すようなこと言うんだよ……」
明日美が困った顔をして皐月を見つめている。だが皐月も困っている。だから眼に力を入れて、明日美を睨むように見た。
「私、突き放すようなことなんて言ったかな?」
「言った。俺が大きくなったから、もう今までみたいな関係は終わりだって。なんでそんな寂しいこと言うんだよ」
「ごめんね。ちょっと言い方が悪かったかな。皐月のことを避けているわけじゃないの。ただあなたのことを子供扱いできなくなったって言いたかっただけなの」
「そんなこと、わかってる。でも……」
今度は明日美が皐月の言葉を待つように黙っている。この沈黙を別の話で誤魔化すわけにはいかない。明日美は皐月に十分配慮した物の言い方をしているからだ。
「俺はただ……今までみたいにムギュってして、チュッてしてほしいんだ」
泣きたくなった。バカみたいに擬音でしか話せなくなってしまい、めちゃくちゃ恥ずかしかった。顔が真っ赤になった。こんな剥き出しの気持ちを人にさらけ出したのは生まれて初めてだ。
「……ばかね」
明日美はいつもより優しく皐月の頬にキスをした。このキスはいままで何百回としてもらったキスの中で一番嬉しいキスだった。皐月はそのまま明日美に体を預けた。
「皐月、あなたは自分が格好良くなったってこと自覚していないでしょ? さっきあなたが女の子と一緒に歩いているのを見た時に、気付いちゃったの。私、あなたのことを男として意識しちゃったんだなって……」




