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9 男子に話しかけられない少女たち

 朝の会が終わり読書の時間になった。藤城皐月(ふじしろさつき)は古本屋で買った芥川龍之介の『歯車』の文庫本を取り出した。

 皐月は『歯車』を開くのをこの時まで待っていた。普段の皐月なら楽しみは後回しにしないで真っ先に飛びつくが、この時の皐月の本当の楽しみは読書ではない。本を読んだ後で吉口千由紀(よしぐちちゆき)二橋絵梨花(にはしえりか)と文学の話をすることだ。

 小さくて薄い文庫本は学校の図書館に並べられている本とは違い、大人の読み物といった格調がある。いつも文庫本を読んでいる千由紀のことを皐月はずっと格好いいと思っていた。皐月もそんな風に格好良くなれるかと思いながらページを()った。


 『歯車』を読み始めて最初に感じたのは、昔の小説なのに思ったよりも読みやすかったことだ。ところどころ古い言葉や言い回しが使われていたが、特に苦にならなかった。

 竹井書店の女店主に『歯車』は小学生には難しいと言われたが、冒頭に関しては『羅生門(らしょうもん)』よりもよほど簡単だと思った。

 読み進めていくうちに感じたのは、『歯車』に『羅生門』ほど文の上手さを感じなかったことだ。『羅生門』は流麗な文章なのに、『歯車』はどこかとつとつとした感じがある。最初は自分の言語処理能力の問題なのかと思ったが、文章がクリアに頭に入ってこない感じは、主語が一人称だからじゃないかと考えた。

 「僕」が主語であることで、三人称の俯瞰で見る世界とは随分と違う印象を受ける。一人称の世界は主人公の目線が全てなので、主人公の「僕」の視界に映るものだけがこの小説の世界の全てだ。

「僕」に選ばれた世界はすべて「僕」の意志を反映したものだ。だから「僕」の心の深淵が垣間見える時がある。そう考えるとこの『歯車』で用いられているレトリックは巧みだと言えるのかもしれない。


 こんなことを考えていると、あっという間に読書の時間が終わってしまった。1時間目は音楽なので移動教室だ。ざわついている間に少しくらい文学の話でもできないかなと思っていたら、千由紀の方から話しかけてきた。これは本にカバーをかけなかった功徳だ。

「藤城君、『歯車』読んでたの?」

「そうだよ、芥川のやつ。本屋で『羅生門』が売ってなかったから代わりに買ったんだ。吉口さんって『歯車』読んだことある?」

「うん」

「おぉ~、さすがは文学少女。古本屋の人が『歯車』は小学生には相当難しいって言ってたけど、吉口さんはもう読んでたのか……。じゃあ『歯車』も『雪国』みたいに何回も繰り返し読んだの?」

「そうだね。一番たくさん読み返したと思う」

「そっか。じゃあ好きなんだね、『歯車』」

「うん。小説では一番好き」

「一番か! そりゃ凄いや。じゃあ俺、偶然いい本ゲットできたんだ。ラッキー」

 皐月は読書の時間に感じたことを話し始めた。教室を移動する準備をしていた千由紀は手を止め、皐月の話を真剣に聞いていた。千由紀の一重瞼の大きな瞳で見つめられると、皐月は軽い緊張と興奮を感じ始めていた。


「皐月、早く行こっ! もうみんな行っちゃったよ」

 イライラした真理が皐月と千由紀に移動を促した。教室に残されたのは皐月と千由紀、絵梨花と真理だけになっていた。

(わり)ぃ悪ぃ」

「授業に遅れちゃうよ」

 皐月は本を片付けて音楽の準備をしようとしたら、ランドセルの中からまだ教科書を出していなかったことに気がついた。

「俺たちなんて放っておいて、さっさと行けばよかったじゃん」

「なによ、せっかく待ってあげてんのに」

 真理が怒っていた。皐月は真理に怒られるのに慣れているが、千由紀は真理が怒るのを見るのはこれが初めてなので、少し怖がっているように見える。

「私ね、学級委員だから最後に教室をチェックしてから出なければいけないの」

 絵梨花はこんな時でも穏やかに微笑んでいる。授業に遅れれば絵梨花だって怒られるのに、どこか立ち振る舞いに余裕がある。

「そんな規則あったっけ? 博紀(ひろき)いないじゃん。あいつなんていつも真っ先に教室からいなくなるし、あいつ仕事サボってんの?」

月花(げっか)さんは知らないよ。だってこれは私が今決めたルールなんだから」

 皐月には絵梨花の言ったことの意味がさっぱりわからなかった。絵梨花は相変わらず柔らかな笑みをたたえている。


 真理に急かされ、皐月は慌てて真理を追いかけた。

「皐月のせいで絵梨花ちゃんまで怒られちゃうんだから、早く行くよ! 吉口さんも行こっ」

「じゃあダッシュな」

 真理が教室を飛び出した皐月と千由紀を制止した。

「廊下を走っちゃダメでしょ」

「真面目かよ。早く行こうぜ」

「なんで私たちが皐月に急かされなきゃいけないの?」

「もたもたすんな。置いてくぞ」

 不敵な笑みを浮かべる皐月に真理も笑いながら「バ~カ」と返す。こういうのは皐月と真理の間ではよくあるやりとりだ。

 真理の怒気を感じた皐月がわざと火に油を注ぐようなことを言うと、真理はその意図に気付いて笑って許してくれる。皐月は真理との即興コントのようなこういう遊びが好きだ。


 呼吸の合う真理ならわかってくれるが、千由紀と絵梨花にはそんな二人にしか通じないやりとりはわからない。皐月の言わば悪態のような言動で、千由紀と絵梨花に緊張が走った。

「先に行ってもいいよ。私たち歩いて行くから」

 絵梨花が放った言葉は思いのほか冷たいものだった。笑顔の消えた絵梨花を見て皐月はうろたえた。

「……ごめん。じゃあ、歩いて行こうか」

 力なく笑った皐月は姿勢を正し、強がって胸を張って音楽室に向かって歩き始めた。すぐ横に千由紀が並び、絵梨花と真理が少し離れて後ろについてきた。

「藤城君、ごめんね。私がつい聞き入っちゃって……」

「いいよ、これは俺が悪かった……。話したいことがいっぱいあってさ、変な感想言っちゃったから、ちょっと恥ずかしかった」

「藤城君って創作側の目線で感想言うから、文集に載ってる読書感想文と違ってすごく面白い」

「吉口さんに面白いって言ってもらえると嬉しいな。先生に褒められるより嬉しいかも」

 皐月と真理の掛け合いを見た千由紀は少し怯えていたように見えた。千由紀が5年生の時にいじめられていたという話を聞いていたので、こういう険しいやりとりは何かトラウマを想起させてしまうのかもしれない。

 今のこのクラスで千由紀にいじめられている様子はない。しかし千由紀が他のクラスメイトと親しくしているところを、皐月はまだ見たことがなかった。本ばかり読んでいる千由紀はそうやって周囲から身を守っているのではないか、と考えたことがある。

 そんな千由紀が自分の話に耳を傾けてくれた。皐月はこの時、千由紀に心の壁を感じなかった。この感覚を千由紀が自分に心を許してくれたことだと思った。


 背後では皐月に聞こえないくらい小さな声で、絵梨花が怪訝な顔をして真理に話しかけていた。

「藤城さんってあんな自分勝手な子だった?」

「あぁ……さっきのあれね。皐月はああいう煽るような言い方好きだからね……私は慣れているけど。絵梨花ちゃんからしたら、あまりいい気はしないよね」

「藤城さんがいたずら好きなのは今まで見てきてなんとなく知ってたけど、さっきのはちょっと言い過ぎかなって思って……」

「皐月は私には遠慮がないからね。私は全然嫌じゃないし、むしろ楽しいよ」

 背の高い真理が絵梨花を笑顔で見下ろしていた。

「ふ~ん。真理ちゃんたちって仲がいいんだね」

「まあ幼馴染だからね」

「そうだったの?」

「うん。このことを知ってる子はあまりいないと思う。このクラスだと、知ってるのは皐月と同じ町内の月花(げっか)くらいかな。月花が誰かに喋ってるかどうかは知らないけど」

「そうなんだ……。真理ちゃんに話しかけるのって藤城さんくらいしかいないから、ずっと不思議に思ってたの。幼馴染だったんだね」

「わぁ……他に話す子がいないって、私って陰キャラ丸出しじゃん。恥ずかしいなぁ、もう……」

「まあ私も似たようなもんだし、いいじゃない。私だって普通に話しかけてくる男子は藤城さんくらいしかいないよ」

「絵梨花ちゃんに話しかけられる男子なんてそうそういないでしょ?」

「え~っ、なんで?」

「だって見るからにお嬢様じゃん。小学校に白のブラウス着てくる子なんて他にいないよ」

「いいでしょ、これは私の趣味なんだから」

 ぷく顔の絵梨花を見た真理はかわいいなと思いつつも、心に波紋が広がるのを感じていた。

「いいな~、そういう清楚な服が似合うなんて。私なんて怖そうだって思われているみたいだから、男子なんて誰も話しかけてこないよ」

「なんかボッチ自慢しているみたいだね、私たち」

「皐月は絵梨花ちゃんにはあんな口の利き方しないと思うから安心して。皐月がああいう態度をとるのは私だけだから」

 苦笑している絵梨花とは対照的に、真理は満面の笑みを浮かべていた。まるで自分が皐月の特別な存在だと誇っているように。


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