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6 よくわからないまま一緒に暮らし、そして馴染んでいく

 藤城皐月(ふじしろさつき)が芥川龍之介の『歯車』を手にとって古本屋の竹井書店を出た頃には、もう日の暮れが迫り出していた。

 赤く染まる空を見上げていると、皐月は漫画を買って帰る時とは違う高揚を感じていた。この小さな文庫本の中に自分の知らない世界がある……弾む気持ちが家路につく足を軽くしていた。

 皐月は新学期の席替えで二人の少女を知った。ひとりは芥川龍之介の『羅生門』を読む二橋絵梨花(にはしえりか)といい、西洋人形のような美少女だ。

 もうひとりは川端康成の『雪国』を読む吉口千由紀(よしぐちちゆき)といい、眼鏡の似合う知的な少女だ。

 文学を語る彼女らは幼馴染の栗林真理(くりばやしまり)とは異なる神秘的な魅力をたたえていた。その魅力が彼女たちそのものから出たものなのか、あるいは彼女らが携えていた文豪による小説から出たものなのかははわからない。

 皐月は文学を通して彼女たちの内面世界に触れることで、二人と現実世界の表面的な付き合い以上の深い繋がりを得られることを期待した。


 板塀から張り出した松の枝は小百合寮に影を落としていた。暮れなずむ路地を歩いて家の玄関まで来ると、格子戸に手をかける頃合いを見計らったかのように行燈(あんどん)の明かりが灯った。古ぼけた行燈には人感センサーをつけていなかったので、この小さな偶然を皐月はささやかに喜んだ。

 三和土(たたき)には少し汚れたスニーカーがあった。及川祐希(おいかわゆうき)はもう高校から帰っているようだ。お勝手から揚げ物の匂いがしてくるので、皐月は急にお腹が空いてきた。何でもいいからつまみ食いがしたくて台所へ直行した。

頼子(よりこ)さん、何を作ってるの?」

「キャベコロよ」

「キャベコロ? キャベコロって何?」

「キャベツコロッケの略かしらね。ジャガイモを使わないでキャベツを使ったカレー味のクリームコロッケで、田原(たはら)市のご当地コロッケなんですって。皐月ちゃん、食べたことないの?」

「食べたことないなぁ。聞いたこともないや」

豊川(とよかわ)と田原はちょっと離れているから、あまり知られていないのかもしれないわね」

 自分の知らない食べ物を出されると、他人と暮らしていることを思い知らされる。皐月は頼子の作る食事をいただくたびに、友だちの家でご飯を御馳走になっている時のような緊張感を感じている。その感覚がいまだに消えていない。

「俺はコロッケって言ったら近所の肉屋のジャガイモしか入っていないコロッケばかり食べてるよ」

「ジャガイモしか入ってないの? ひき肉やタマネギもなし?」

「そう。お店で揚げたてのを買っておやつにするんだ。安くて美味しいよ。俺はその肉屋のコロッケが一番美味いと思ってる」

「揚げたてか~。肉屋だから、揚げ油はラードかしら? それは美味しいそうね」

「でもママは肉が入ってないから嫌って言うんだ。わかってないよなぁ」

「今度私も食べてみようかしら。そんなに皐月ちゃんが美味しいって言うのなら、私も一度食べてみたいわ」

「ジャガイモしか入ってないけど、マッシュした中に芋のかたまりも入っていて、食感が変わるのがいいんだよ。それに甘くないし、塩胡椒で味付けがされていてね、ソースかけなくてもすむから、外で遊びながらでも食べられるんだ」

「甘くないのはいいわね。今作ってるキャベコロも甘くないわよ」

「本当? 楽しみ!」

 皐月は優しい頼子には何の不満もなかった。今はまだ慣れていないだけだと思うことにした。


 食事の用意ができるまでまだ少し時間があるので、皐月は部屋に戻った。ベッドの上にさっき買った本を放ると、つまみ食いをするのを忘れたことを思い出し、急に腹が減った。

 皐月の部屋と祐希の部屋を仕切る襖が少しだけ開いていた。これは遠慮なく声をかけられるようにと、及川祐希(おいかわゆうき)がわざと開けている習慣だ。

 皐月は何のためらいもなく襖を全開にして、ベッドを乗り越えて祐希の部屋に入った。ジャージに着替えた祐希はヘッドホンで何かを聴きながら勉強机に向かっていた。

「ただいま」

 もしかしたらこの声は聞こえないかな、と思いながら小さく声をかけてみると祐希は普通に反応してくれた。

「おかえり。遊びに行ってたの?」

「うん、本屋に行ってた。祐希は勉強してたの?」

「まあね。でも、あまり集中してなかったけど……」

 祐希はヘッドホンを外し、完全に話をする態勢になっていた。

「まだ進路が決まってないから全然やる気が出なくて……。皐月は何の本を買ってきたの?」

「芥川龍之介。祐希って読書とかするの? 本読んでるとこ、まだ見たことないんだけど」

「読書か……ほとんどしないな~。夏までは部活で忙しかったし。でもときどき美紅(みく)にドラマの原作の小説とか借りて読んでたよ」

 祐希の部屋は物が少なく、書籍は雑誌が少しあるだけで、小説はおろか漫画すら見当たらない。

「美紅さんって文学少女?」

「ん~、ちょっと違うかな。恋愛小説とかミステリーとかが好きみたいだけど、皐月が買ってきたような文豪の小説は読んでなかったと思う」

「そっか……美紅さんが文学好きだったら、会った時に話す話題ができるのになって思ったんだけど」

 女子の誰もが文学少女というわけではない。皐月は自分の常識が狂っていることに気付かされた。

「皐月、美紅のこと気にしてくれるんだ。ありがとう。美紅が知ったら喜ぶと思うよ。あとでメッセージ送ろっと」


「祐希は英語の勉強をしていたんだよね。受験勉強?」

「うん、英検のリスニングの問題をやってたんだけど……」

「なんか面白そうじゃん。ちょっと見せて」

「皐月は好奇心が旺盛だね」

 及川親子がこの家に住み込みに来て歓迎会を開いた時、祐希と頼子が進路のことを少し話していた。その時、祐希は働くと言っていて、東京に出たいとも言っていた。

 祐希の友だちの黒田美紅は東京の服飾の専門学校へ行く予定で、祐希は美紅を追って東京に出たがっている。そんな祐希が受検のために英語の勉強をしている……。

 皐月が手に取った教材は英検準2級の過去問題集だった。千智はステファニーと英語で話していると言っていたので、英語なら小5の千智の方が高3の祐希よりも実力があるのかもしれない。

「俺ね、中学受験しないことにしたんだ」

「うん……あれっ? 皐月って中学受験するつもりだったの?」

「真理に言われてちょっと考えてみた。でもやっぱやめた」

「そう……。皐月は進路を決めたんだね」

 祐希が不安そうな顔をした。初めて祐希と会った時に見た憂いを含んだ顔を思い出した。

「決めたっていうか、最初から決められてたんだけどね。みんなと同じルートに戻ってきただけだし……。普通はみんな、地元の中学に行くじゃん。そこをあえて外れて私立に行く真理や千智ってちょっと格好いいなって思ってたんだけど」

「千智ちゃんも中学受験するの?」

「そうなんだよ。あいつ超頭いいんだ。身近にそんな奴らがいると、自分のことダサいかなって思っちゃって……」

 祐希が入屋千智(いりやちさと)の中学受験のことを知らないことに驚いた。

「まだ時間があるから、もう少し考えてみればいいじゃない。進路のこと」

「それがそういうわけにもいかないんだ。今まで受験勉強してこなかったから、もう迷ってる暇がないし、いい学校に行こうと思ったら完全に時間切れだし……」

「今から勉強頑張ってもダメなの?」

「もう全然ダメ。上位の私立中学はちょっと学校の勉強ができるくらいじゃ太刀打ちできないレベルだった。受験する子ってみんな4年生くらいから塾に行き始めるんだって。もう6年の秋だから、今からじゃ塾に入れてもらえないし、自分で勉強したところで間に合わない」

 自分の負けを認めるようで悔しかった。祐希に慰めてもらいたいという、甘えた気持ちもある。


「本当にそうなのかな……」

「真理なんかさ、いくら勉強頑張っても他の子も頑張ってるから、もう成績上がらないんだって。それが現実だよ」

「中学受験って厳しいんだね」

「俺は今、受験勉強よりもやりたいことがたくさんあるから、そっちを優先しようかなって思ってる。小説も読みたいし、祐希がやっているような高校の勉強もしてみたい」

 言い訳をしているみたいで、皐月は惨めな気持ちになってきた。本当は中学受験で戦えないことが悔しい。

「皐月がそう決めたんならいいんじゃない。私よりよっぽどちゃんと自分の意志を持っていて、偉いなって思うよ」

「いや……そんなことない。困難に立ち向かわないで、安易に現状維持に流されているだけだし、問題を先送りしてるっていう自覚もある。やっぱ逃げなのかな。格好悪いな……」

「別に格好悪いってことはないでしょ。皐月は中学生になった自分の未来よりも、今やりたいことを大切にしたいって思って決断したんだよね。それって格好いいことだと思うよ、私は」


 祐希のスマホに頼子からメッセージが届いた。それは夕食の準備ができたことを知らせるもので、大きな家に住むようになってから声をかけられなくなったと祐希が笑って言った。祐希の笑顔を見て皐月はまた自分の空腹を思い出した。


 皐月はもっと祐希と話をしていたかった。

 祐希て何だろう……よくわからないまま一緒に暮らし、そして馴染んでいく。二階から一階に下りる間はあまりに短く、それ以上深く考える時を与えてはくれなかった。


 食卓に着くとスーパーの総菜売り場のように、たくさんのコロッケが積まれていた。思わず祐希と顔を見合わせてしまった。

「ちょっと作り過ぎちゃったかな」

 いつも品数が多くバランスの良い献立だが、今日は一点豪華のコロッケ祭りだ。

 他のおかずはレタスと海苔の和風サラダと豆腐とわかめの赤だしというシンプルさ。好きなものばかりでテンションが上がってくるが、キャベコロが得体のしれないコロッケだということが不安要素ではある。

「山にいた頃を思い出すね、こういうのって。お母さんっていつも単品ドカーンだった」

「たくさんコロッケを食べてもらいたかったのよ。今日は小鉢なしにさせてもらったわ。皐月ちゃん、いっぱい食べてね」

「ありがとう。好きなおかずだったらそればっか食べたいって思うから、こういう献立は大歓迎だよ。でもキャベコロってじゃがいもが入っていないんだよね。どんなコロッケなんだろう?」

「これって普通のコロッケじゃなかったの? お母さんのいつものコロッケが好きだったのに……」

「まあ食べてみて、絶対おいしいから。キャベコロも好きになると思うよ」


 いただきますをして皐月は真っ先にキャベコロにかぶりついた。じゃがいものコロッケのホクっとした食感と違い、シャキっと軽く食べやすい。揚げ方も上手だ。

「クリームコロッケ?」

「クリーム少なめだけどね。メインは田原の特産品のキャベツ。カレー味がポイントね。私はカレー粉の配合にはちょっと思い入れがあってね、ちょっとこだわってるんだ。どう? 美味しいでしょ」

「すっげー美味いよ、これ! 食べやすいから無限に食べられそうだ。これ真理にも食べさせてやりたいな……」

「真理ちゃんもたまには家に食べに来てくれたらいいのにね」

「俺、メッセージ送ってみるよ。もしかしたら食べに来るかもしれないし」

 皐月はスマホで栗林真理(くりばやし)にメッセージを送って、キャベコロを食べ続けた。祐希の食欲が凄く、途中から大食い競争の様相を呈してきた。

「祐希……なんでそんなに食えんだよ」

「元運動部員をナメないでよね」

「そんなに食うと太るそ」

「ブッブー、残念。私は食べても太らない体質なの。私じゃなくて皐月が太るんじゃないの?」

 皐月はキャベコロを10個食べたところで苦しくなり、もうこれ以上食べられなくなった。そっと箸を置くと真理からメッセージが返ってきた。

(真理のこと忘れてた……)


 真理はもう晩ご飯を食べ終わったという。キャベコロのことを知っていたみたいで、食べられなくて残念がっていた。

「真理に少しおすそ分けを持って行ってあげたいんだけど、いい?」

「あたなたちがたくさん食べちゃったから、もうほとんど残っていないわね」

「真理も晩飯食べ終わってるみたいだから、二つもあれば十分だと思う。あいつは祐希みたいにバカみたいな大食いじゃないから」

「そういうこと言うと真理ちゃんの分も食べちゃうぞ」

「こんなことならもっと作っておけばよかったわ。今から持って行けるように用意するね」

「ありがとう」

 これで真理に会える口実ができた。おすそ分けを持っていくとメッセージを送ると真理は喜んでいた。なんだか目頭のあたりがぞわぞわしてきた。


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