5 芥川の『歯車』は小学生には難しい
放課後の校庭でバスケをして遊んでいた藤城皐月は花岡聡と別れ、それぞれの帰路についた。
皐月の通学路には新刊書店がある。皐月は学校で話題にのぼった芥川龍之介の『羅生門』を探しに書店に入ると、その店に芥川の本は一冊も置いてなかった。家に帰った後で別の書店で探してみようと思った。
皐月は芥川龍之介の小説を買いに近所の古本屋へ出かけた。
皐月にとって自分の小遣いで小説を買うのはこれが初めてだ。漫画ならよく買っていたし、漫画以外だと、鉄道の本や時刻表もときどき買っていた。漢字検定の問題集や、最近では中学受験用の算数の参考書も買った。
しかし小説にはあまり関心がなかったので、わざわざ買ってまで読んでみようとは思わなかった。読書感想文を書くために小学生向けの物語なら買わされたことがある。皐月の読書体験はその程度のものだった。
課題図書がつまらなかったというわけではないが、皐月にとって、学校の宿題が積極的に小説を読んでみようというきっかけにはならなかった。
小説を読んでみようと思ったのは隣の席の二橋絵梨花の一言だった。
「小説も漫画も同じだよ」
この言葉は目から鱗だった。絵梨花は同じ小説を何度も繰り返し読むという。後ろの席の吉口千由紀に至っては好きな本を繰り返し読むだけにとどまらず、話の途中から読んだり途中でやめたりといった読み方もするという。
適当な読み方をしていると千由紀は自嘲するが、皐月も同じ読み方で漫画を読んでいる。漫画は一冊で終わるものが少なく、大抵は何冊もの分冊になっている。漫画を繰り返し読む場合、最初の1巻から読み返すこともあるが、好きな巻だけ繰り返し読むことは普通によくあることだ。
要は面白い小説を読めばいい……あまりにも単純なことで、皐月には盲点になっていた視点だった。皐月はまだ何度も繰り返し読みたくなるような面白い小説に出会っていないだけだった。
千由紀は川端康成の『雪国』をクズ男とキチガイ女の胸糞悪い話だと評したが、美しい表現が好きで何度も読み返している。
絵梨花は『羅生門』を受験勉強のために繰り返し読んでいる。『羅生門』を極限状態に置かれて切羽詰まった人間を描いた小説だと言えるくらいだから、絵梨花も好きで読んでいるのに違いない。皐月はとりあえずすぐに読み終わる短編の『羅生門』を読んでみようと思った。
皐月の買いたい本は学校で絵梨花が読んでいたものと全く同じ本だ。それは少年少女日本文学館シリーズの『トロッコ・鼻』で、お目当ての小説はこの中の『羅生門』だ。
千由紀は『羅生門』なら読むだけならネットの青空文庫というサイトで全文読めると教えてくれたが、皐月は小学校の読書タイムで読む紙の本が欲しかった。家のPCで読めば、わからない言葉があってもすぐにネットで調べられる。学校で読むのなら辞書でいちいち言葉の意味を調べるのは面倒なので、注釈が多い本がいい。
絵梨花の読んでいた少年少女日本文学館シリーズは装丁がいかにも小学生向けという感じがして、ええ格好しいの皐月にはそれが気に入らない。皐月には千由紀の読んでいる小さな文庫本が格好よく見えた。
時々見せる千由紀の肩肘をついて、片手で文庫本を持って読む姿が知的で大人びている。皐月はそこに魅力を感じ、できることなら自分も千由紀のような雰囲気を身につけたいと思った。
絵梨花の背筋を伸ばして堂々と小学生向けの本を読んでいる姿も美しい。だが皐月にはそんな絵梨花が手の届かない世界に住んでいるような気がして、とても真似できないと諦めている。
皐月は近所の竹井書店という小さな古本屋にやってきた。まずは店先の100円均一のワゴンの中で芥川の本を探すことにした。
日光や風に晒されたワゴンには雑多な本が無造作に置かれていて、よく見なければ欲しい本は見つかりそうにない。一冊づつ丁寧に日焼けして薄汚れた本を見ていったが、その中に芥川の本は見当たらなかった。川端の本も探したが見つからなかったので、店に入って改めて探すことにした。
この竹井書店は市井の人が気軽に読めるような軽めの本が多く揃えられている。専門書のような堅い本はほとんど置いていなく、小説や漫画、サブカルチャーの本が多い。漫画の品揃えはあまり良くないが、古めの漫画が厳選されている。
友人の神谷秀真が竹井書店でオカルト系の本を買っているというので、一度連れて来られたことがある。すっかりここが気に入ってしまったので、皐月は竹井書店を利用するようになり、店の人と仲良くなった。
文庫本コーナーに一冊だけ芥川の本が置いてあった。それは岩波文庫の『歯車 他二篇』だった。
表紙の宣伝文には「自ら死を決意した人の死を待つ日々の心情が端的に反映されている」と書かれている。これは『羅生門』以上に人の心の闇が描かれているように感じた。そしてそれはホラーやダークヒーローとは異質であることが想像できた。
皐月のお目当てだった本が見つからなかったので、この『歯車』を買うことにした。売価を見ると200円で定価の半額の出費で済む。欲しい本はなかったが、芥川の面白そうな本を見つけられたことで嬉しくなった。
店番をしながら本を読んでいるこの店の女性店主のところへ『歯車』を持っていった。精算時に彼女と話をするのが皐月の密かな楽しみだ。彼女は母より若く、小柄でかわいらしい人だ。女性店主にはいつも見慣れている芸妓たちとは違う魅力がある。
「今日は小説を買いに来たよ」
いつも漫画ばかり買っているので、今日は少し誇らしい気分だ。皐月は彼女に褒められることを期待していた。
「藤城君、どうしたの? その頭」
「へへっ、格好いい?」
「格好いいけど、先生に怒られない?」
「大丈夫だよ、インナーカラーだからそんなに目立たないし。それに校則で禁止されているわけじゃないからね。でも中学に上がったらちゃんと黒髪に戻すよ」
「そう? 私、心配しちゃった」
彼女はこの紫に染めた髪をよく思っていないのでは、と感じた。これは小学校の先生たちから感じる不快感を少し薄めた感じだ。
「芥川龍之介の『羅生門』と川端康成の『雪国』を探してたんだけど、この店には置いていなかったね。今日はとりあえず芥川を一冊買ってみることにしたんだけどさ、竹井さんって『歯車』読んだことある?」
「この小説はね、相当難しいよ。君に読めるかな……」
皐月は今まで竹井に否定的なことを言われたことがなかったので動揺した。自分に都合のいい目論見の当てが外れて凹んだだけでなく、髪の毛のこともあって反発する気持ちが湧いてきた。
「漢字ならほとんど読めると思うよ。俺、もう高校生が習う漢字なら全部わかるから」
「うん……この小説の難しさは使われている言葉の意味よりも、背景知識を知っているかどうかってことなの。『歯車』は自伝的な小説だから芥川の生涯や交友関係の知識があった方がいいかな。あとこの小説には西洋や東洋の作家や著書の名前がたくさん出てくるんだけど、それらの知識がないとよくわからないと思うよ」
「そんなの一回読んだ後にネットで調べるよ」
店番をしながらいつも本を読んでいるだけあって、竹井は『歯車』を読んでいた。皐月は彼女が丁寧に『歯車』を読んでいたことに軽く感動した。そんな竹井に千由紀に対するシンパシーに近いものを感じた。
「随分熱心なのね。夏休みの読書感想文ってわけでもないし、どうしちゃったの?」
「ちょっと文学に興味を持っただけだよ。それより他にも難しいことって何かある?」
「他ねぇ……いきなりフランス語の会話が出てくるよ。翻訳なしで。あとキリストへの信仰の話が出てくるんだけど、聖書の知識はあったほうがより理解が深まるかもね。皐月君は聖書って知ってる?」
「もちろん知ってるよ。読んだことはないけど……」
「信仰はしなくてもいいけれど、教養として聖書は読んでおいた方がいいかもね。聖書は西洋の文化の基盤になっていて、聖書を知らなければ西洋の小説や絵画・音楽は何もわからないから。まあ『歯車』だったらそこまで聖書のことを知らなくても、それなりに楽しめると思うけど」
今日の竹井は皐月に対して子ども扱いをしていなかった。皐月はちょっと怖かったけど、嬉しくもあった。
「そういうことの説明ってこの本の注釈に書いてあるの? 書いてあったら学校で読みやすいんだけど」
「岩波文庫は不親切だから、注釈はないわね。注釈が欲しかったら全集で読まなきゃ。ウチには置いていないけれど」
「わかった。じゃあそういうのはネットで調べるよ」
皐月が代金を払って家に帰ろうとしたら竹井に引き留められた。
「この小説は自殺する前に描いたものだから、話が陰鬱なの。そういう暗い方向に引っ張られないように気をつけてね」
「わかった」
「ホントにわかった? 大丈夫かな……」
「大丈夫、わかってるって。心配性だな、竹井さんは」
「『歯車』はね、川端康成が芥川の最高傑作だって絶賛してたのよ。だから期待していいと思うよ」
「ありがとう。また小説買いに来るからね。バイバ~イ!」
竹井の話で皐月はますます『歯車』を読んでみたくなった。でも帰ったらまずはネットで『羅生門』を読んでみようと思っている。そして明日、絵梨花と『羅生門』の話ができるのが楽しみだ。