142 なんで誰もいないんだよ……
筒井美耶を家まで送って別れた後、藤城皐月は学校指定の通学路から家に帰らずに、豊川稲荷の中を抜けて帰ることにした。普通の道を歩いたって何も面白くない。皐月は寺の境内を歩きながら、まだ美耶との余韻に浸っていたかった。
奥の院への参道は樹々が光を遮り、夕闇に沈みかかっていた。薄暮の中に千本幟が光に反射して明るく浮かび上がっている。逢魔時の境内を恐れる皐月には幟の生地の白さが救いになっていた。
皐月にとって美耶と長い時間をかけて、雑談以外の話をしたのはこの日が初めてだった。教室では席が隣同士だったため、休憩時間だけでなく、授業中もよく喋っていた。しかし二人でこんなにまとまった時間一緒にいて、多くのことを語り合ったことはなかった。
今日の美耶とは友達にも話したことのない内面的なことを話せた。そう考えると、学校での友達付き合いなんて表面的なものなのかもしれない。皐月は学校での人間関係は案外空虚なものなのかもしれないと寂しくなった。
子供の頃からさんざん遊んできた豊川稲荷だが、改めて境内を見回してみると自分の知識のなさを思い知らされる。夏休みの自由研究の時に荼枳尼天のことを勉強したが、その程度の知識では付け焼刃にすらなっていない。
美耶は生活の中で自然に宗教的な知識を身に付けていた。神谷秀真の影響でオカルトの知識に目覚め始めた皐月には、見識の高い美耶が眩しかった。
だが、皐月は不思議とこれ以上の知的好奇心が刺激されることがなかった。豊川稲荷に対する興味のなさが我ながら不思議に思えた。それは豊川稲荷が自分にとってあまりにも身近な存在だったからなのか、それとも神話と宗教に対する興味の度合いが違うのか。皐月はこれ以上積極的に豊川稲荷について勉強してみようとは思わなかった。
曇天で薄暗くなった境内は一人で歩くには寂しかった。平日の夕方だから、遠方からの参拝客などいるはずもない。
一人ぽつんと樹々に囲まれていると、自分が今ここにいること自体がどうかしているような気がしてきた。ランドセルを背負った男子小学生が一人、奥の院に向かって参道を歩いている……俯瞰してみてみると明らかに様子のおかしな少年だ。
霊狐塚の入口の前まで来た。鳥居の前に立つと、この仄暗い参道をさらに奥まで歩き、一千体を超える狐と対面したい気持ちにはなれなかった。前は入屋千智と二人だったから、霊狐塚の狐たちに見つめられても耐えることができた。しかし自分一人ではそんな真似はできそうにない。
千智のことを思い出すと、千智の手を取ってここまで走ってきた時の高揚感が甦ってきた。皐月にとってフォークダンス以外で女子と手をつないだのは、あの時が初めてだった。
思えば千智の手を取った瞬間こそが女の子を恋愛対象と意識した最初だったのかもしれない。皐月は甘い思い出に引っ張られ、意志に反して鳥居の奥へと吸い込まれていった。
霊狐塚は思ったほど怖くなかった。圧倒的な数の狐に見つめられているが、その視線が皐月には優しく感じられた。狐にかけられた赤い前掛けが木陰の暗がりに浮かんで見えた。
千智と二人でこの場にいたことを思い出すと涙が滲んできた。ついさっきまで美耶と一緒にいたくせに、今はもう千智に会いたくなっている。
暗い霊狐塚に一歩足を踏み入れてみると、千智に会いたいといった気持ち以上に、誰かに触れて、人肌のぬくもりを感じたくなった。そう思った瞬間、栗林真理のことが頭をよぎった。
今この世界には皐月の他には一千体を超える狐の石像しかいない。いくら千智や真理のことを考えても、ここには自分一人しかいない。さっきまで美耶と一緒にいたけれど、今は一人ぼっちだ。黄昏の霊狐塚を焦るように見回していると、寂しさがさらに募ってきた。
いてもたってもいられなくなり、皐月は駆け出した。
千本幟が視界の端を流れてゆく。背中のランドセルが暴れている。今日はいつもよりも教科書がたくさん入っているので、重いランドセルの肩ひもが両肩に食い込んで痛い。
霊狐塚を出て左へ曲がり、奥の院を超えて千本幟受付所の前を駆け抜ける。ここなら誰か人がいるかと思ったが、もう受付窓口は閉まっていた。景雲門を走り抜け、三重塔を右手に見た後も走り続けて通天廊をくぐり抜けた。
右手の妙厳寺庭園の上方向こうに大本殿が見える。池にかかった橋で立ち止まって池を覗き込み、放生されている錦鯉を見た。自分以外の生き物を見て、皐月は少しほっとした。
すでに閉まっている御朱印納経所まで戻ると、空がひらけて少し明るくなった。大本殿への参道の鳥居はくぐらずに、瑞祥殿の前を右に折れて、山門の手前の漱水舎まで来た。
さっき美耶と急接近した時の肩のぬくもりが手のひらに甦ってくる。この辺りで入屋千智や及川祐希、そして月花博紀たちと一緒に写真を撮ってはしゃいでいたことが今では懐かしく感じた。
この一カ月で楽しい思い出がたくさんできた豊川稲荷だが、今はこんなに広い境内に自分一人しかいない。
(なんで誰もいないんだよ!)
大きな声で叫びたかった。しかし、いくらまわりに人がいなくても、さすがにそんなことはできない。
ここにいてもただただ寂しくなるだけなので、もう家に帰ることにした。少なくとも今日は家に帰れば及川祐希には会える。
祐希は皐月の家で暮らし始めてから一月くらいしか経っていない。祐希と皐月はまだ家族のように親しくはなっていない。それは祐希が高校生という六歳も年が離れたお姉さんなので、二人ともお互いに同級生の友達のように接することができないからだ。
そんな祐希がいきなり自分の部屋と襖一枚を隔てた隣の部屋に毎日いる。見た目もかわいい祐希のことを、皐月はやはり異性として意識せざるを得なくなっている。




