139 ヤキモチ
藤城皐月は豊川稲荷大本殿の外陣の前まで来たところで、これより先に進むことを躊躇した。「宗教の人嫌い」と言った筒井美耶と宗教的な行為をするわけにはいかない。皐月は教室でいつも美耶のことをぞんざいに扱っているが、今は美耶に嫌われたくないと思い、臆病になっていた。
「荼枳尼天ってインドの女神だよね。戦いの神様だっけ? 戦国武将が好んで祀っていたらしいね」
宗教的な話題を避けようと思っていたのに、美耶の方から神様の話を振ってきた。
「あれ? 筒井って荼枳尼天のこと知ってたんだ」
「栗林さんが夏休みの自由研究で調べてたよね。私、それ読んだもん」
稲荷小学校では全校生徒の夏休みの自由研究や自由工作が体育館に集められ、父兄に公開される。それらを全校児童も昼休みや放課後などに見ることができる。皐月もみんなの作品を見に行ったが、数が多過ぎて一部の作品しかしっかりと見られなかった。
「意外だったな。あの栗林さんが荼枳尼天に興味があったなんて。全然そんな風に見えなかった。クールで宗教には関心がないのかと思ってた」
皐月には美耶が栗林真理の自由研究に興味を示したことの方が意外だった。真理が提出した荼枳尼天の研究は皐月が書いたものだが、こんなのは小難しくて誰も読まないと思っていた。
「真理がクール? あいつに聞かせたら喜ぶぞ、クールとはほど遠いキャラだからな」
「嘘! 私にはクールにしか見えないんだけど」
「あいつは無愛想なだけだよ。まあ無愛想なのも学校内限定の属性なんだけどな。でも最近はあいつも明るくなったと思うよ。二橋さんのおかげかな」
真理と二橋絵梨花の二人は稲荷小学校で中学受験をする希少種だ。この二人は2学期になって同じ班になった。二人にしかわからない受験生特有の心情があり、それを共有できることで真理も絵梨花も情緒が安定しているようだ。
「あいつの自由研究な、俺が少し手伝ったんだ」
本当は皐月が全部やった。真理がギリギリまで宿題をサボっていたので、皐月が助け船を出してやった。ちょうどこのタイミングで皐月が荼枳尼天に興味を持ったのが幸いした。
「えっ? 藤城君が栗林さんの自由研究を手伝ったの?」
「ああ、そうだけど。なんかおかしいか?」
「藤城君が手伝ってもらったんだったらわかるけど」
「なんだよ、それ」
皐月は苦笑せざるを得なかった。1学期に皐月と隣同士の席だった美耶は、学校の宿題を提出直前に教室であわてて片付けている皐月の姿をよく見ていた。そんな皐月が優等生の真理の宿題を手伝っただなんて誰が信じようか。
「じゃあ夏休みに栗林さんと一緒に自由研究やったの?」
「そうだよ」
美耶は憮然としていた。
「前から思ってたんだけどさ、藤城君って栗林さんと異常に仲がいいよね。お互いに名前を呼び捨てにしてるし。どうして?」
「どうしてって、そりゃ俺たち幼馴染だし」
「幼馴染? 栗林さんと?」
「そう。真理の親も芸妓でさ、親同士仲がいいんだ。俺と真理はよく託児所みたいに、さっきの検番に預けられていたんだ。さっき会った満と薫にもよく遊んでもらったよ」
皐月は宗教の話から話題が逸れてホッとした。だが真理との話もなかなかデリケートな話題だ。皐月と真理が子どもの頃からお互いの家に預けられて泊まったりしていたことは秘密にしておかなければならない。
「それであの芸妓のお姉さん、私のことを『真理ちゃん』って言ったんだ」
「今の筒井の髪型って昔の真理にちょっと似てるからな。満は最近の真理のこと知らないから、間違えたんじゃないかな」
満の失言をを弁護しつつ、皐月は真理との関係の疑惑を緩和しようと試みた。だがそんな皐月の思いはまったく無意味だった。
「ふ〜ん。じゃあ5年生の女の子は?」
「なんだ? その5年生の女の子って」
入屋千智の話題に移ったことはすぐにわかった。だんだん美耶のことが鬱陶しくなってきた。
「最近5年生の女の子と一緒にいるところを見たっていう話をよく聞くよ。私は見たことないけど、すっごくかわいい子なんだってね」
「みんなよく見てるな。これじゃあまるで監視されてるみたいだ。まあ隠れてコソコソ会ってるわけじゃないから、別にいいんだけどさ」
千智は稲荷小学校では有名らしい。皐月は全然知らなかったが、同じ町内の月花直紀や今泉俊介に言わせると、5年生の間では千智を知らない者はいないようだ。同じ通学班で4年生の山崎祐奈も同じようなことを言っていた。
「その子って藤城君の彼女?」
「彼女じゃ……ないな。特にそういった話はしてないし。勝手に彼女呼ばわりしたら俺、千智に怒られちゃうよ」
「また名前呼び捨てにしてる! 私のことは名字呼び捨てなのに。じゃあ……藤城君ってその千智って子のこと好きなの?」
「ん? そりゃ好きだよ」
「!」
「そんなの好きに決まってんじゃん。好きじゃなかったら一緒に遊んだりしねーよ」
「そうか……好きなんだ……」
ショックを受けた美耶の顔は痛々しかった。美耶の言う「好き」が恋愛の「好き」だということはわかっていた。だが皐月の言う「好き」が恋愛感情なのかどうかはいまだに自分でもわからない。