137 恥ずかしい失敗
藤城皐月は筒井美耶の肩に手をかけて向かい合っていた。手のひらに美耶の体の柔らかさとぬくもりが伝わってきた。皐月はこの万能感を手に入れたような幸せな感覚を知っている。
このまま美耶を抱き寄せてしまおうか、と大胆なことを考えた。相手が幼馴染の栗林真理なら何度も経験しているから慣れている。
しかし、相手は美耶だ。拒否されるかもしれない。胸がドキドキしてしてきた。
皐月が逡巡しているうちに、美耶から笑みが消えた。
(やるか……)
もう迷っている時間はない。少しでも抵抗されたらすぐに押し返して、手を離せばいい。これならきっと大丈夫だろう。
皐月は美耶の反応を試すようにゆっくりと肩を引き寄せた。伸ばした腕を少し曲げ、美耶の体が自分の方に傾き始めたところでブレーキがかかった。
(失敗だ!)
その瞬間、皐月は美耶を軽く突き離した。すると、美耶の上体が反り返ってしまった。後ろに倒れたら危ないと思い、皐月は咄嗟に右手で美耶の左手を掴んだ。美耶が驚いた顔をして皐月を見た。
「行こうぜ」
皐月は何事もなかったかのように装って、美耶の手を引いて歩きだした。この時も美耶が少しでも抵抗したら手を離そうと思ったが、美耶は手を繋いだままでいてくれた。漱水舎で手を清めたばかりなのに、美耶の手のひらは温かく潤っていた。
二人は無言で大本殿前の大きな二の鳥居をくぐった。正面に見える豊川稲荷大本殿は威厳を示すためなのか、高台を作ってその上に建てられている。皐月には大本殿が参道の直線上ではなく、少し右に折れた坂道の先にある意味がわからくて、いつも心がモヤモヤする。
大本殿前の坂の両端に緩やかな階段がある。右側の階段を歩けば手摺の向こうに日本庭園が見えるが、歩幅が合わなくて歩きにくい。
皐月は中央に広く作られた坂を歩いた。この坂には雨の滑り止めになるように石畳に細かく溝が彫られている。皐月は坂を登る前に立ち止まり、その場にしゃがみこんだ。
「この坂の溝って自転車で坂を下る時にブーンって音が鳴るから、気持ちいいんだ。この溝が何本あるか数えたことがあるんだけど、途中で嫌になってやめちゃった」
「うわぁ〜っ、暇なことしてしてたんだね」
「本当に暇だったんだ。低学年の頃って、一日がすごく長かった」
美耶もしゃがんで、皐月がやっていたように溝の数を数え始めた。
「なっ? 一番上まで数えたくなっただろ?」
「なるわけないよっ! よくこんな面倒くさいことをしてたね?」
「いつも途中で数がわからなくなっちゃうんだ」
「バカみたい」
二人で笑い合っていると、さっきまでの緊迫感が消えた。皐月は美耶のあどけない笑顔が大好きだ。教室で席が隣同士だった時、皐月は美耶のこの表情が見たくて、いつも笑わせようとふざけていた。
しゃがんでいた二人は立ち上がり、ゆっくりと坂道を歩いて大本殿に向かった。ど真ん中を歩こうとすると、美耶に真ん中は神様の通り道だからいけないと言われた。じゃあということで皐月は右側に寄ったが、美耶は真ん中を避けようとはしなかった。
「そういう話があるみたいだけど、私は全然気にしていないの」
自分で注意しておきながら、美耶はお構いなしに真ん中を堂々と歩いている。
「誰がそんなこと言い始めたんだろうね。そんなの人が多かったらできるわけないのに。エスカレーターの片側を空けるみたいで好きじゃないな、そういう意味不明の規則って」
学校での美耶は決まりごとをあまり守らないタイプだ。皐月はそんな美耶をだらしない奴だと思っていたが、美耶なりの考えがあって規則を無視しているのかもしれない。これからは美耶のことを見直すことにした。
「この参道ってお正月には真夜中でも参拝者で満員になるんだぜ」
「へぇ〜、すごい人なんだね。藤城君って真夜中にここ来たことあるんだ」
「一度だけね。元旦だから寒いし、人は多いし……それに眠かったからもう懲りた」
皐月と真理がまだ小さかった頃、お互いの母と四人で豊川稲荷に来て、除夜の鐘を聞いたことがある。今ではいい思い出だが、その頃は母と幼馴染と一緒に初詣をすることがこんなにも幸せなことだとは思わなかった。あの頃の皐月と真理は寒くて眠くて、早く家に帰りたいとぐずっていた。