136 誰もいない境内
豊川稲荷の総門をくぐると、左手に土産物を売っている屋台が二台出ている。初詣の時は境内にたくさんの屋台が出るが、通年で屋台を出しているのはここだけだ。
子どもの頃から気になる店だった。しかし、ここには藤城皐月の欲しいものは何も売っていない。静謐な境内に屋台が点景としていい味を出している。
ここで皐月は筒井美耶に対して入屋千智や及川祐希にしたような案内をするつもりはなかった。美耶の方が自分よりも寺院の造詣が深いので下手なことは言えない。それに、美耶には話したいことよりも聞きたいことの方がたくさんある。
前に来た時は正面に見える山門をくぐって漱水舎(手水舎)へ行ったが、今日は違う参道を通って大本殿へ行こうと思った。
総門を抜けてすぐに左に曲がると右手に大きな石造の鳥居がある。狛犬の代わりに狛狐が置かれている。ずんぐりとした狛犬と違って、しゅっとした狛狐は格好いい。だが狛犬よりも狛狐の方が妖気を感じて怖い。
「お寺なのに鳥居が残っているんだね。稲荷神社だと宇迦之御魂神が祀られてるんだけど、ここってお寺だよね。本地垂迹だとどうなるんだろう……」
「豊川稲荷の本尊は荼枳尼天だけど、本地垂迹って何?」
「お寺の仏様は神社の神様の化身だっていう話なんだって」
「ヤベぇな……お前、詳し過ぎ。デートの相手はおれじゃなくて秀真の方が良かったんじゃね?」
「なんでそんなこと言うの!」
学校で美耶にちょっかいを出して怒らせたことは何度もあったが、こんな風に怒った美耶を見るのは初めてだ。
「だって秀真の方が俺よりお寺や神社の知識があるし、話が合いそうじゃん」
皐月は怒る美耶にビビって、卑屈な態度をとってしまった。
「話なんか合わないよ。それに、私なんか全然詳しくないって」
「そんなことねーよ。それに前に修験道の人たちが歩く山道を歩いたとか言ってたじゃん。筒井ってそういう宗教系のこと詳しいのかなって……」
「それはうちのお爺ちゃんが修験道の修業をしてるから、小さいころからいろいろな話を聞かされてただけだよ。実家に帰ったら、私とお兄ちゃんはお爺ちゃんに連れられて山に入ったりしてたし」
山に入るとか、美耶はアニメの話のようなことをしていた。皐月は美耶の運動神経の良さの秘密がこの時わかった。
「そうそう、そういう話。秀真の奴、筒井に修験道とか山の話を聞きたかったって言ってたよ。また話してあげたら?」
「え〜っ、神谷君とあまり話したくないな……」
美耶は露骨に嫌な顔をした。美耶は教室ではいつも明るく、うるさいくらい賑やかだが、皐月は美耶が人を悪く言っているところを見たことがなかった。
「どうして?」
「だって私……神とか仏とか、あまり信じていないから。信仰心がある人と宗教の話はしたくない」
皐月の周囲には宗教を信仰している大人がいない。皐月は宗教のことを軽く考えていた。
「そういうことなら大丈夫だと思うよ。秀真が特に宗教を信じてるっていう話は聞いていないから。たぶんあいつって、不思議なことに興味があるだけだよ」
友人が誤解されていると思い、皐月は神谷秀真のことを弁護した。だが秀真が本当のところ何を考えているのかはよくわからない。仮に秀真が何らかの宗教を信じていても構わないと思っている。
「じゃあ藤城君は?」
「それは俺も同じ。神様とか仏様とかはよくわかんないし、不思議な話とかオカルト話が好きなだけだ。だから秀真と話しているとすごく楽しい」
「……ならいいんだけど」
「じゃあ機会があったら秀真に修験道とか大峰山の話でも聞かせてやってよ。なっ?」
「あまり気が進まないけど、藤城君が一緒にいてくれるんだったらいいよ。私が困ったら助けてね」
「いいよ、もちろん。俺だって筒井の話いろいろ聞きたいし」
「私の話なんか今聞けばいいじゃない」
硬い表情をしていた美耶だったが、やっと柔らかい顔になった。こんな優しい顔をした美耶を皐月は教室で見たことがなかった。
大本殿に行く前に漱水舎で手を洗うことにした。柄杓で水をすくって適当に手を洗っていると、美耶に違うと注意された。皐月は正しい作法を教わって身を清め、濡れた口をTシャツの袖で拭い、手を裾で拭いた。
「ちょっと藤城君、服で拭いちゃダメ! みっともないでしょ」
「なんだよ、うるさいな〜。俺のママかよ。いいじゃん、別に何で拭いたって」
「よくないっ! ハンカチ持ってないの?」
「持ってねーよ。そんなの使わんし」
「トイレに行った後どうするの?」
「チャーっと手を洗って、パッと服で拭いてるよ」
「一応手は洗うんだ……」
「まあウンコの時しか洗わないけどな」
「学校で大きい方するの?」
「そんなのするわけねーじゃん! 学校でクソしたら一生の恥だわ」
「じゃあ手洗いしないってことじゃない! 汚っ!」
プリプリ怒っている美耶を見て楽しくなってきた。
「それっ! バイ菌だ〜」
「うわっ!」
ふざけて美耶を触ろうとしたら、びっくりして後ずさりした。反応が早い。
「あっ、お前今、本当に俺のこと汚いって思ったろ? ひどいな〜」
「そんな急に襲いかかって来られたら逃げるに決まってるでしょ」
「襲うって人聞きが悪いな。避けられたことで二重で傷つくわ」
美耶は2mくらい離れたところまで逃げていた。やっと1学期の頃の美耶に戻ったような気がして嬉しくなってきた。
「もう汚くないからこっちに来いよ」
不機嫌そうな顔をして美耶が戻って来たので、皐月は美耶の肩に手をかけた。
「あれっ? 逃げないの?」
「だって汚くないもん。さっきお清めしたでしょ」
美耶はもう不機嫌そうな顔をしていなかった。それどころか嬉しそうに笑みを浮かべていた。
平日の夕暮れ時、豊川稲荷の境内には皐月と美耶の他に誰もいなかった。傾き始めた陽の光が美耶をいつもよりかわいく見せている。
今ならこのまま肩を引き寄せてしまえばキスだってできそうだ……そんな不埒な考えが頭をよぎり、皐月の心拍数は急上昇した。