106 長続きしない感情
栗林真理の部屋を出た藤城皐月は、エレベーターの中の姿見鏡で自分の姿を見て絶望した。ランドセルを背負った姿を見ると、ダサくて泣きたくなる。一刻も早く、背中にある鬱陶しいものから解放されたい。
皐月は真理の住むマンションを出て、豊川駅の東西自由通路の階段を駆け上がった。飯田線を超える橋上の改札口まで来ると、西口から次々と通勤通学の人たちが来る。階段を下りる時に人とすれ違うのが恥ずかしいので、改札の正面にある狐の展示物でランドセルを目立たないように隠し、人の流れが途切れるのを待つことにした。
朝から真理とキスをしていたせいで、改札に向かう人を眺めているとつい女の人を性的な目で見てしまう。大人の女性だったら当然、いろいろな体験をしているのだろう。
アダルト動画のようなことだってしているはずだ。そんな妄想をしていると、体が徐々に反応し始めた。みっともない姿になる前に、早く家に帰って心も体も鎮めなければと思った。皐月は急場しのぎで、気持ちを萎えさせるおっさんを探した。
「あれ? 何してるの?」
皐月の家で一緒に住むようになった、女子高生の及川祐希がエスカレーターに乗ってやって来た。皐月はサラリーマンばかり見ていたので、ギリギリまで男の背後にいた祐希に気付かなかった。
「祐希のことを見送ろうと思って、待っていたんだよ」
「ありがとう。でも、私がいつ来るかなんてわからなかったでしょ」
「だいたいこの時間かなって思って。それに、この電車が出たら祐希の見送りは諦めて、学校に行くつもりだったよ」
「待っててくれて、ありがとう。ランドセル姿、かわいいね。ちょっと写真撮らせてよ」
「ヤダよ! ダッセーじゃん」
「美紅に送ってあげたら喜ぶと思ったんだけどな〜」
「じゃあ祐希の制服姿も撮らせろよ。博紀の奴が喜ぶから、画像送ってやるよ」
「え〜、なんかヤダ……」
「早く学校へ行けよ。電車が来ちゃうぞ」
「はいはい。じゃあ行ってくるね」
祐希が改札を抜けて階段を下りるまで、皐月はずっと見送っていた。ホームへ下りる時、祐希が振り向いて手を振ったので、皐月も手を振り返した。恋人同士になったような幸せな瞬間だった。
列車が出て人の流れが途絶えたので、皐月は安心してランドセル姿で階段を下りることができた。
6年4組の教室に入ると最初に松井晴香たちのグループと顔を合わせた。
「おはよう」
皐月は久しぶりに自分から晴香に声をかけた。
「おはよう……」
晴香は少しおどおどしている。
「毛先、巻いたんだ。今日のアレンジ、めっちゃかわいいじゃん」
「ホント? ありがとう。こないだはゴメンね……」
「ん? なんかあったっけ?」
この日の晴香は見た目だけでなく、性格もかわいかった。
「藤城のことホストみたいだって……」
「ああ、そのことか。松井なりに俺のことをカッコイイって言ってくれたんだよな。あの時は気付くのが遅かった。こっちこそゴメン」
「……よかった、怒ってなくて」
教室で晴香はいつも勝ち気な女王様なので、このクラスの男子は晴香のホッとした顔をほとんど見る機会がない。皐月はこういう弱った顔の晴香もなかなか魅力的だと思った。
きっと月花博紀は晴香のこの表情をよく見ているのだろう。博紀と話している晴香はいつも緊張している。たまにこんな顔を見せられたら、博紀だって晴香のことをいいなって思うに違いない。
ランドセルを教室の後ろの棚に入れると、花岡聡が話しかけてきた。
「先生、松井と話してたな。どうしたんだ?」
「ああ。あいつのヘアアレンジがかわいかったから、声をかけたんだ」
「松井と仲直りしたのか?」
「仲直りも何も、もともと大して怒っていなかったけどな。それに俺って、怒りの感情が長続きしないから」
「さすがは先生。女には優しい」
「なんで女に限定するんだよ。俺は誰に対しても優しいよ」
聡は皐月のことを先生と呼んでいるが、本当は聡の方が女性のことを教えてくれる皐月の先生だ。
だが聡が教えてくれる女性のことは全てただの知識で、いまだ体験に基づく話を聞かされたことがない。少しだけ早くキスまで済ませた皐月の目には、聡が幼く見えるようになっていた。だが皐月は聡の先生になろうとは思わなかった。




