123 『歯車』
朝の会が終わり読書の時間になった。藤城皐月は古本屋で買った芥川龍之介の『歯車』の文庫本を取り出した。
皐月は『歯車』を開くのをこの時まで待っていた。普段なら楽しみは後回しにしないで真っ先に飛びつくが、この時の本当の楽しみは読書ではない。本を読んだ後で吉口千由紀や二橋絵梨花と文学の話をすることだ。
小さくて薄い文庫本は学校の図書館に並べられている本とは違い、大人の読み物といった格調がある。皐月はいつも文庫本を読んでいる千由紀のことを格好いいと思っていた。皐月もそんな風に格好良くなれるかと思いながらページを繰った。
『歯車』を読み始めて最初に感じたのは、昔の小説なのに思ったよりも読みやすかったことだ。ところどころ古い言葉や言い回しが使われているが、特に苦にならなかった。
竹井書店の女店主に『歯車』は小学生には難しいと言われたが、冒頭に関しては『羅生門』よりもよほど簡単だと思った。
読み進めていくうちに感じたのは、『歯車』に『羅生門』ほど文の上手さを感じなかったことだ。『羅生門』は流麗な文章なのに、『歯車』はどこかとつとつとした感じがある。最初は自分の言語処理能力の問題なのかと思ったが、文章がクリアに頭に入ってこない感じは、主語が一人称だからじゃないかと考えた。
「僕」が主語であることで、三人称の俯瞰で見る世界とは随分と違う印象を受ける。一人称の世界は主人公の目線が全てなので、主人公の「僕」の視界に映るものだけがこの小説の世界の全てだ。
「僕」に選ばれた世界はすべて「僕」の意志を反映したものだ。だから「僕」の心の深淵が垣間見える時がある。そう考えるとこの『歯車』で用いられているレトリックは巧みだと言えるのかもしれない。
こんなことを考えていると、あっという間に読書の時間が終わってしまった。1時間目は音楽なので移動教室だ。ざわついている間に少しくらい文学の話でもできないかなと思っていたら、千由紀の方から話しかけてきた。これは本にカバーをかけなかった功徳だ。
「藤城君、『歯車』読んでたの?」
「そうだよ、芥川のやつ。本屋で『羅生門』が売ってなかったから代わりに買ったんだ。吉口さんって『歯車』読んだことある?」
「うん」
「おぉ〜、さすがは文学少女。古本屋の人が『歯車』は小学生には相当難しいって言ってたけど、吉口さんはもう読んでたのか……。じゃあ『歯車』も『雪国』みたいに何回も繰り返し読んだの?」
「そうだね。一番たくさん読み返したと思う」
「そっか。じゃあ好きなんだね、『歯車』」
「うん。小説では一番好き」
「一番か! そりゃ凄いや。じゃあ俺、偶然いい本ゲットできたんだ。ラッキー」
皐月は読書の時間に感じたことを話し始めた。教室を移動する準備をしていた千由紀は手を止め、皐月の話を真剣に聞いていた。千由紀の一重瞼の大きな瞳で見つめられると、皐月は軽い緊張と興奮を感じ始めていた。
「皐月、早く行こっ! もうみんな行っちゃったよ」
イライラした真理が皐月と千由紀に移動を促した。教室に残されたのは皐月と千由紀、絵梨花と真理だけになっていた。
「悪ぃ悪ぃ」
「授業に遅れちゃうよ」
皐月は本を片付けて音楽の準備をしようとしたら、ランドセルの中からまだ教科書を出していなかったことに気がついた。
「俺たちなんて放っておいて、さっさと行けばよかったじゃん」
「なによ、せっかく待ってあげてんのに」
真理が怒っていた。皐月は真理に怒られるのに慣れているが、千由紀は真理が怒るのを見るのはこれが初めてなので、少し怖がっているように見える。
「私ね、学級委員だから最後に教室をチェックしてから出なければいけないの」
絵梨花はこんな時でも穏やかに微笑んでいる。授業に遅れれば絵梨花だって怒られるのに、どこか立ち振る舞いに余裕がある。
「そんな規則あったっけ? 博紀いないじゃん。あいつなんて、いつも真っ先に教室からいなくなるし。あいつ、仕事サボってんの?」
「月花さんは知らないよ。だってこれは私が今決めたルールなんだから」
皐月には絵梨花の言ったことの意味がさっぱりわからなかった。絵梨花は相変わらず柔らかな笑みをたたえている。




