120 記憶と幻想のクロスオーバー
風呂を上がり部屋に戻ると、ベッドの上に古本屋で買った『歯車』が無造作に投げ出されていた。藤城皐月は今すぐ読みたい衝動に駆られたが、その前にネットで『羅生門』を読まなければならない。『歯車』は明日の学校での読書の時間のお楽しみに取っておこうと思い、PCを立ち上げた。
『青空文庫』にアクセスして『羅生門』を開くと本文が出てきた。皐月がこの時に開いたのは横書きの文章だった。漢字にはルビが振られていたので読むだけなら困らずに済みそうだ。PCで読むので、わからないことはすぐにネットで調べられる。
『羅生門』は情景描写から始まり状況描写に移るが、その無駄のないシャープな文章に皐月はシビれた。荒廃した平安京の様子が頭の中にありありと見えてきたのだ。それは決して映像のようなリアルさではないが、リアリティーがあった。芥川龍之介の小説の凄さは普段読書をしていない皐月にもすぐにわかった。
「皐月、今いい? 勉強してた?」
襖が小さく開き、及川祐希が顔を出していた。平安時代から一気に現代へ引き戻されてしまった。
「ネットで小説読んでた。どうしたの?」
「真理ちゃんの家から帰ってから、皐月とまだ何も話していないじゃない。どうだったのかなって思って……」
不安げな顔をした祐希が妙にかわいかった。女子高生なのに、小学生の同級生の女子と何も変わらなく見えた。隣の席だった筒井美耶の時々見せる表情に良く似ていた。
「帰ったらすぐに風呂に入りなさいって、頼子さんに言われたんだ。真理、キャベコロ美味しかったって言ってたよ。ありがとうって」
「そう。よかった……」
「なんで一個しかないのって言われた」
「あれ? 二つ持っていったんじゃなかったっけ?」
「俺が一つ食べた」
「皐月も食べたの? よく食べるね?」
「これで11個になったから、俺の勝ちだね。祐希が10個食べたって言ったら笑ってたよ」
「やめてよ、そういうこと言うの。恥ずかしいじゃない……」
祐希が部屋に戻ったので、皐月は小説の続きを読もうと思った。だが、脳内がまだ現代から平安時代に切り替わっていなかったので、もう一度冒頭から読み直すことにした。
自分もこんな風に栗林真理の勉強の邪魔をしていたんだなと思った。だが、真理との逢瀬のことを思い出すと、邪魔のレベルはこんなものではなかった。
時間がかなり経過した今でさえ、あの時のことを思い出すと体が熱くなる。性的なキスをした直後の身も心もとろけるような状態からは、いくら真理でも簡単に勉強モードに切り替えられるはずがない。
真理の「勉強する気になれない」という言葉は重いものだった。本来なら自分こそが欲情を抑えなければならないはずだ。あの時は自分も真理も狂っていた。こうして人は堕落していくんだな、と皐月は小学生にして悟ったような気になった。
皐月はデスクから離れ、ベッドに横になった。もう小説を読む気分ではなくなっていたので、部屋の電気を消して頭まで布団にもぐった。
反省する気持ちはすぐに消え、今日の事や初めての時のことがリフレインし始めた。皐月はただじっとして、回想に耽った。
皐月の脳内に異変が起こった。
真理のことで頭がいっぱいになっていたはずなのに、祐希と話をしたことが引き金となり、記憶がクロスオーバーを起こした。真理とキスをしたのに、脳内では真理と祐希が入れ換わり、祐希とキスをしていることになっている。
この記憶のバグのせいで異常な興奮に襲われた。ついさっきまで真理とキスをしていただけに、この幻想は生々しい。皐月は祐希と話をしていた時、祐希の目を見るよりも、口ばかり見ていたことを思い出した。
今まで想像もしなかった世界を見てしまったからには、その妄想に浸っていくしかない。後ろめたさを感じながらも、皐月は目を閉じた。祐希と体を求めあっている場面を妄想していていると、いつか祐希ともそういうことをしてみたいと、不埒なことを考えるようになっていた。
勉強机に置いてあるスマホの着信音が鳴った。ビクッとして布団から顔を出すと、部屋はPCの画面でそこそこ明るかった。皐月は部屋の電気を付けずにスマホを手に取った。
入屋千智からのメッセージだった。そこには塾で二橋絵梨花に声をかけられたことが書かれていた。
皐月は千智と絵梨花が同じ塾に通っていることを知らなかった。千智は絵梨花が同じ小学校であることと、皐月と同じクラスであることを知り、驚いたようだ。
千智からのメッセージで皐月は正気に戻った。もう一度部屋の電気を付け、開いたままのPCに向かって『羅生門』の続きを読むことにした。明日は絵梨花に『羅生門』の感想を話さなければならない。もう一度目を閉じたところで、皐月には千智や絵梨花との甘美な幻想を創り出すことはできそうにない。




