36 遅い帰宅
藤城皐月が栗林真理の家から帰ったのは夜の10時を過ぎていた。小学6年生としては遅すぎる時間だ。及川祐希はすでに高校から帰っていたようで、玄関の下駄箱に登下校用のスニーカーが揃えて置かれていた。
皐月は祐希と顔を合わせたくなかった。母の部屋の洋服箪笥から着替えを出して、さっさと風呂に入ってしまいたかった。着替えを揃えて風呂に入ろうと浴室に向かうと、階段を下りる音がした。
「おかえり」
「ただいま」
祐希は心配そうな顔をしているが、どことなく怒っているようにも感じた。
「遅かったね」
「ごめん。ちょっと真理とカラオケに行ってたから」
「もう……心配したんだから」
「うん……ごめん」
「お風呂わかしておいたから入って。私はもう済ませたから」
「わかった」
祐希は一度も笑顔を見せずに二階へ戻って行った。祐希も母の小百合のように匂いに敏感なところがある。もしかしたら何かを感づかれたのかもしれない。皐月は少し不安になったが、祐希にも同じ経験があれば、皐月と真理がしていたことに気付いても不思議はない。
皐月は浴室に入って着ていた服を脱ぎ、洗濯ネットに入れて洗濯機に放り込んでおいた。この習慣が証拠隠滅に役立つとは思わなかった。小百合か頼子に服を畳んでもらったら、真理との関係がバレてしまうだろう。
風呂から上がり、二階の自分の部屋に戻ると、自分の部屋と祐希の部屋を隔てる襖は閉められていた。今日はこのまま祐希と話さないで寝てしまおうと思った。
寝る前にスマホの電源を入れると、入屋千智や筒井美耶、江嶋華鈴からメッセージが届いていた。全て軽い内容だったので、美耶と華鈴は手短に、千智には丁寧な返信をした。月曜日の学校の準備をして照明を落とした時、襖越しに祐希の声がした。
「皐月、まだ起きてる?」
襖を開けるとTシャツを着た祐希が蒲団の上に座っていた。蒲団が敷かれた祐希の部屋を見るのは初めてだった。
「もう寝ようかなって思ってたんだけど……」
「ごめんね」
「どうしたの?」
「……うん。特に大した用ってわけじゃないんだけど」
「えっ? なんなの?」
皐月は思わず苦笑した。祐希も顔をこわばらせて笑っている。
「皐月って10月の第3土曜日って空いてる?」
「修学旅行が終わった後か……。まあ、空いてるかな。どうせヒマだし」
「私の通ってる高校で文化祭があるの。土曜日は一般の人に開放しているから、皐月と千智ちゃんに来てもらえたらいいなって思って……」
「土曜日か……。俺は大丈夫だけど、千智はどうかな? 塾があるんじゃなかったかな?」
「さっき千智ちゃんに聞いたら、塾は休むって。どう? 来てくれる?」
さっき見た千智からのメッセージには祐希の高校の文化祭については一言も触れられていなかった。
だが皐月はそれよりも千智が塾を休むことが気になっていた。塾を休むのは不真面目だということではなく、経済的なことが心配だった。
真理に塾なんかサボっちゃえばって言ったことがあるが、親がお金を出してくれているから休めないと言われた。千智はそのことをどう考えているのか。
「そうだね……一度千智と話し合ってみるよ。ちょっと今すぐには決められないかな」
「うん。わかった。眠いのに話しに付き合わせちゃってごめんね」
「いいよ」
しばらく沈黙が続いた。祐希は何かを話したがっているような顔をしている。皐月はこういう時にいつも、間を持たせるために何かを話すか、何かを聞くかする。だがこの時はそういう優しい気持ちにはなれなかった。
「じゃあ、おやすみ」
「あっ、ちょっと待って」
皐月が話を終えようとすると、祐希に止められた。
「何?」
言った後、言い方が少しキツかったかなと思った。今日は真理との余韻に浸りたかったので、すぐにここから離れたかった。だが、これでは祐希に八つ当たりしているみたいだと思い、意識して優しく微笑んだ。
「どうしたの? 大事な話があるなら、俺、そっちに行こうか?」
「あっ、……うん」
祐希が掛け蒲団の上に座っているので、皐月は蒲団の横の畳の上に座った。話しが長くなるのかな、と覚悟を決めた。




