235 幼馴染ではなくなった
栗林真理の部屋に残った藤城皐月は食べ終わったかつ丼の容器にパンやおにぎりなどのゴミを詰めて、レジ袋の口を縛った。こうしておけばパッと見、一人分のゴミにしか見えない。これで真理の母の凛子の目には不自然なゴミに見えないはずだ。
部屋の窓を開けて空気を入れ換えた。10階の高さの風は想像以上に強く、窓の外に顔を出すと前髪がなびいた。皐月は、日の暮れる前に小百合寮の二階の窓から空を見上げながら思索してた時のことを思い出した。
あの時無性に会いたかった真理には既に会えた。あんなに寂しく感傷的になっていたことが嘘のように、今は心が満たされている。
皐月はセンチメンタリズムに囚われた夕方の自分のことが恥ずかしくなった。芥川龍之介の『羅生門』の下人ではないが、あの時の自分の心は途方にくれていたのかもしれない。
思いがけず一人になったことで、意識の底に秘めておいた明日美が表に現れた。脳裏に浮かぶ実体感のない明日美を感じると、皐月は強烈な罪悪感に襲われた。この罪の意識が皐月から離れなくなったのは、初めて明日美と口づけをかわした時に始まった。
皐月はついこの間まで恋愛を知らなかった。だが、ここに来て自身を取り巻く様相が一変した。魅力的な少女たちと同じ時期に関わりができたからだ。それだけでなく、憧れ続けてきた美しい芸妓への思いも遂げることができた。
(いい気なり過ぎていたのかもしれないな……)
皐月は自分が誰を一番好きなのかわからなくなっていた。短期間に多くの女性を好きになってしまったからだ。
一人を深く好きになる前に、次の女性を好きになってしまう。好きな人がいるから他の人を好きにならない、ということが幼い皐月にはできなかった。
真理や明日美、入屋千智や江嶋華鈴、及川祐希や筒井美耶に至るまで、皐月は彼女らと二人でいる時はこの世界で二人しかいないつもりで接してきた。その時はとても楽しく、幸福感に包まれていた。
だが、一人になった途端に心が乱れる。初めのうちはふわふわとした高揚感に陶酔していたが、日替わりのように違う少女と関わっているうちに、単純に楽しんではいられなくなった。
真理と口づけを交わし、その後、明日美ともキスをした。そして今日はこれから、真理とさらに深い関係になるだろう。性的には満たされても、精神的には苦しくなるに違いない。
「皐月……」
開け放たれた部屋の入口に真理が立っていた。新しい口紅に変えた真理は、さっきまでの大人ぶった艶めかしい感じから、清楚な大学生のようだった。
「今度はかわいくなったね。すごく似合ってる」
「ありがとう」
皐月は窓辺から離れ、真理は部屋に入ってきた。二人は自然と寄りそい、しばしの間、お互いを確認するかのように見つめ合った。
開け放たれた窓から冷たい風が入って来る。真理の二の腕が少し冷えているのを手のひらで感じたので、皐月は窓を閉めるために真理から離れた。
「もう秋だな。少し寒い。上着、着る?」
「いい」
「じゃあ暖房、つける?」
「嫌」
真理が求めているのは自分が求めているものと同じ、体の温もりに違いない。そう思った皐月は真理の後ろに回り、半袖同士の生腕を重ねた。自然と後ろから抱き締めるような格好になった。
真理は姿勢良く立っていた。自分の方に倒れるように体を預けてくれると楽だが、このまま真理を抱き続けていると前屈みになってしまう。
皐月は体勢を維持するのに疲れてしまった。腰の痛みがひどくなる前に真理をベッドに座らせたが、もう少し楽になりたかったので、真理をベッドに押し倒した。
「あれっ? あれっ? 皐月、どうしちゃったの?」
真理が嬉しそうにしている。皐月も真理に優しい笑顔で応えた。
「別にどうもしてねーよ」
真理が目を閉じたので、皐月はキスをしようとした。唇が薄っすらと開いていた。軽く口ではさむようにキスをすると、真理の吐息が少し乱れた。
「優しいキスだね」
「塗り直したリップが取れちゃうだろ。せっかくだから、もう少し真理のかわいい顔を見ていたい」
「じゃあ、しばらくはキス禁止ね」
「まあ、しょうがないか……」
皐月は真理に覆いかぶさるようにしていたが、隣で横になった。横になりながら向かい合っていると、子どもの頃に二人で母たちの仕事の帰りを待っていたことを思い出す。でも二人はもう、あの頃のような子供ではない。
「ねえ、蒲団の中に入ろうよ」
皐月が返事をする前に、真理は掛け蒲団の下へ潜り込んだ。皐月も真理に続いて掛け蒲団を体に掛けた。自分の罪の重さなんて羽毛の軽さと同じ程度のものかもしれない……今はそう思うことにした。
真理が部屋の照明を消し、ベッドサイドの照明を切り替えた。3Dプリンターで月を再現したナイトライトが神秘的だ。真理と二人で銀河鉄道から月を眺めているみたいだ。
「満月を見てると狼男に変身しちゃうかも」
「変身してもいいよ」
「えっ?」
「かわいいメイクなんか、いつでもしてあげるから」
顔を紅潮させている真理は妖しいまでに美しかった。真理の鼓動が伝わってきて、皐月の鼓動も速くなった。
「いいのか?」
「うん。でも最後まではダメ。わかるよね?」
「……わかった」
「約束できる?」
「約束は守る」
皐月はリップが取れないよう、慎重に唇を合わせた。少しキスしては顔を離し、真理の顔を見た。メイクをした真理はスッピンの時とは違い、濡れた唇の感触もまとう匂いも違う。別の女の子のような感じがした。
皐月が触れるか触れないかの口づけを繰り返していると、真理が舌を出した。リップが取れないように舌先だけを触れあっていると、真理の呼吸が乱れてきた。
「ねえ、焦らさないでよ」
「俺だって我慢してるんだ。真理のメイクを崩したくない」
「そんなのいいじゃない」
真理は皐月の頭に手をかけて、引き寄せながらキスをした。真理の舌が口の奥深くまで挿し込まれた。皐月も真理に同じことをした。お互いに何度も繰り返しているうちに、真理の口の周りが唾液とリップで汚れてしまった。
「変な顔」
「皐月が悪いんだからね」
二人は上着を脱ぎ、肌と肌を重ねた。この日、皐月と真理は幼馴染ではなくなった。




