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藤城皐月物語 2  作者: 音彌
第3章 広がる内面世界
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117 負けを認めるようで悔しい

 食事の用意ができるまでまだ少し時間があるので、藤城皐月(ふじしろさつき)は二階にある自分の部屋に戻った。ベッドの上にさっき買った本を放ると、つまみ食いをするのを忘れたことを思い出し、急に腹が減った。

 皐月の部屋と祐希の部屋を仕切る襖が少しだけ開いていた。これは遠慮なく声をかけられるようにと、及川祐希(おいかわゆうき)がわざと開けている習慣だ。

 皐月は何のためらいもなく襖を全開にして、ベッドを乗り越えて祐希の部屋に入った。ジャージに着替えていた祐希はヘッドホンで何かを聴きながら勉強机に向かっていた。

「ただいま」

 もしかしたらこの声は聞こえないかな、と思いながら小さく声をかけてみると祐希は普通に反応してくれた。

「おかえり。遊びに行ってたの?」

「うん、本屋に行ってた。祐希は勉強してたの?」

「まあね。でも、あまり集中してなかったけど……」

 祐希はヘッドホンを外し、完全に話をする態勢になっていた。


「まだ進路が決まってないから全然やる気が出なくて……。皐月は何の本を買ってきたの?」

「芥川龍之介。祐希って読書とかするの? 本読んでるとこ、まだ見たことないんだけど」

「読書か……ほとんどしないな〜。夏までは部活で忙しかったし。でもときどき美紅(みく)にドラマの原作の小説とか借りて読んでたよ」

 祐希の部屋は物が少なく、書籍は雑誌が少しあるだけで、小説はおろか漫画すら見当たらない。

「美紅さんって文学少女?」

「ん〜、ちょっと違うかな。恋愛小説とかミステリーとかが好きみたいだけど、皐月が買ってきたような文豪の小説は読んでなかったと思う」

「そっか……美紅さんが文学好きだったら、会った時に話す話題ができるのになって思ったんだけど」

 女子の誰もが文学少女というわけではない。皐月は自分の常識が狂っていることに気付かされた。

「皐月、美紅のこと気にしてくれるんだ。ありがとう。美紅が知ったら喜ぶと思うよ。あとでメッセージ送ろっと」


「祐希は英語の勉強をしていたんだよね。受験勉強?」

「うん、英検のリスニングの問題をやってたんだけど……」

「なんか面白そうじゃん。ちょっと見せて」

「皐月は好奇心が旺盛だね」

 及川親子がこの家に住み込みに来て歓迎会を開いた時、祐希と頼子が進路のことを少し話していた。その時、祐希は働くと言っていて、東京に出たいとも言っていた。

 祐希の友人の黒田美紅(くろだみく)は東京の服飾の専門学校へ行く予定で、祐希は美紅を追って東京に出たがっている。そんな祐希が受検のために英語の勉強をしている……。

 皐月が手に取った教材は英検準2級の過去問題集だった。入屋千智いりやちさとはステファニーと英語で話していると言っていたので、英語なら小五の千智の方が高三の祐希よりも実力があるのかもしれない。

「俺ね、中学受験しないことにしたんだ」

「うん……あれっ? 皐月って中学受験するつもりだったの?」

「真理に言われてちょっと考えてみた。でもやっぱやめた」

「そう……。皐月は進路を決めたんだね」

 祐希が不安そうな顔をした。初めて祐希と会った時に見た憂いを含んだ顔を思い出した。


「決めたっていうか、最初から決められてたんだけどね。みんなと同じルートに戻ってきただけだし……。普通はみんな、地元の中学に行くじゃん。そこをあえて外れて私立に行く真理や千智ってちょっと格好いいなって思ってたんだけど」

「千智ちゃんも中学受験するの?」

「そうなんだよ。あいつ超頭いいんだ。身近にそんな奴らがいると、自分のことダサいかなって思っちゃって……」

 祐希が千智の中学受験のことを知らないことに驚いた。二人はメッセージのやり取りをしているはずだ。

「まだ時間があるから、もう少し考えてみればいいじゃない。進路のこと」

「それがそういうわけにもいかないんだ。今まで受験勉強してこなかったから、もう迷ってる暇がないし、いい学校に行こうと思ったら完全に時間切れだし……」

「今から勉強頑張ってもダメなの?」

「もう全然ダメ。上位の私立中学はちょっと学校の勉強ができるくらいじゃ太刀打ちできないレベルだった。受験する子ってみんな四年生くらいから塾に行き始めるんだって。もう六年の秋だから、今からじゃ塾に入れてもらえないし、自分で勉強したところで間に合わない」

 言っていて、皐月は自分の負けを認めたような気になり、悔しくなった。


「本当にそうなのかな……」

 祐希はまだ皐月の可能性を信じようとしている。皐月は祐希に慰めてもらいたいという、甘えた気持ちになってきた。

「真理なんかさ、いくら勉強頑張っても他の子も頑張ってるから、もう成績上がらないんだって。それが現実だよ」

「中学受験って厳しいんだね」

「俺は今、受験勉強よりもやりたいことがたくさんあるから、そっちを優先しようかなって思ってる。小説も読みたいし、祐希がやっているような高校の勉強もしてみたい」

 言い訳をしているみたいで、皐月は惨めな気持ちになってきた。本当は中学受験で戦えないことが悔しい。

「皐月がそう決めたんならいいんじゃない。私よりよっぽどちゃんと自分の意志を持っていて、偉いなって思うよ」

「いや……そんなことない。困難に立ち向かわないで、安易に現状維持に流されているだけだし、問題を先送りしてるっていう自覚もある。やっぱ逃げなのかな。格好悪いな……」

「別に格好悪いってことはないでしょ。皐月は中学生になった自分の未来よりも、今やりたいことを大切にしたいって思って決断したんだよね。それって格好いいことだと思うよ、私は」


 祐希のスマホに頼子からメッセージが届いた。それは夕食の準備ができたことを知らせるもので、大きな家に住むようになってから声をかけられなくなった、と祐希が笑って言った。祐希の笑顔を見て皐月はまた自分の空腹を思い出した。


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