233 ドラッグストア
藤城皐月は栗林真理の部屋の前まで来た。10階の渡り廊下から豊川駅の構内を俯瞰するのが、ここに来た時の皐月のルーティーンだ。例え車両が停まっていなくても、レールやプラットホームを見ているだけで心が落ち着く。
皐月は玄関のチャイムを押した。カメラ越しに見られていると思うと、相手が幼馴染でも少し緊張する。しばらくすると扉が開き、真理が顔を出した。
「ようっ」
今日の真理は妙に色っぽい。軽くメイクをしているようで、瞼と唇がほんのりと赤い。
「入って」
玄関で靴を揃えて上がり框に上がると、真理が抱きついてきた。大人の香水の匂いがした。
「どうしたんだ?」
何も言わず、真理がキスをしてきた。唇が触れた瞬間、明日美のことを思い出し、体を少し引いてしまった。
「ねえ、なんで逃げるの?」
「いきなりだったからさ……少し驚いただけ」
真理がつけているのは凛子の香水だろう。芸妓の匂いだ。そのせいで皐月は明日美のことを思い出し、真理と唇を重ねることに躊躇してしまった。
「今日の真理、きれいだな。ドキッとした」
「本当?」
「……うん」
今度は皐月から唇を合わせた。真理とは違い、軽く柔らかいキスをした。
「あれ? やり方変えた?」
「いろいろ勉強してるんだよ」
「そっちの勉強は熱心なのね」
「まあ、エロいからな」
今度は真理からキスをしてきた。真理の方が明日美よりも情熱的だ。皐月は真理の気持ちに応えながら、自分の身体は明日美とのキスを覚えていたんだな、と妙なことに感心していた。真理が今までよりも顔を上げていることに気付き、皐月は自分の背が高くなったことを実感した。
「私の部屋に行こ」
真理に手を引かれた皐月は黙ってついて行った。部屋に入ると真理がベッドに座ったので、皐月も隣に座った。真理が身体を預けてきたので、肩に手を回した。
「本当に今日はどうしたんだよ?」
「ん? どうもしてないよ」
「子どもの頃みたいに甘えてくるね」
「嫌なの?」
「嫌なわけないじゃん」
皐月からふんわりと唇を重ねると、今度は真理が皐月に合わせてくれた。ゆっくりとベッドに押し倒し、柔らかく深い口づけをした。
外はもう暗くなっていた。夕刻には爽やかな風だったが、夜になると半袖では少し寒く感じる。秋はすでに訪れているようだ。
今日は駅の西口にあるコンビニへ買出しには行かず、東口のドラッグストアへ行くことにした。真理の話では、ここのドラッグストアはコンビニよりも弁当類が充実しているらしい。皐月は途中にあるネットカフェに入って、遊びながら軽く何かを食べたかったが、ここは小学生だけでは入れない。
「凛姐さん、今日は帰って来るんだろ?」
「うん」
「よかったじゃん」
「別に……。もう帰って来なくても平気だから」
夜道を抜けてたどり着いたドラッグストアは出入り口が眩しいくらい明るかった。
照明で姿のはっきり見えた真理はとても大人っぽくてきれいだった。リップを塗り直したので、6年4組の教室で見る真理とは印象が全然違う。メイクをするとやっぱり母の凛子に似ている。
店内は健全過ぎるほど明るかった。家庭的なものに溢れたところにいると、恋人同士というよりも夫婦のような気分になる。今までに経験したことのない幸せな気持ちになった。
「私、ここで絵梨花ちゃんと会ったことがあるよ」
「本当?」
思わず皐月は店内を見回した。
「こんな時間にいるわけないでしょ。今頃は塾にいる時間帯だし、塾が休みでも、絵梨花ちゃんがこんな時間に来るわけないよ」
クスッと笑う真理は楽しそうだった。
「二橋さん家ってこの近くなのか?」
皐月は二橋絵梨花と一緒に家に帰った時に住んでいる町を聞いていたので、絵梨花の家がここから近いことはわかっていた。この質問は印象操作と情報収集だ。
「伊呂通だから、まあまあ近いかな。でも姫街道の向こうだから、やっぱり遠いか」
「そうか……。大通りを挟むと距離的に近くても遠く感じるよな。俺ん家も線路の向こうだから、真理の家って距離以上に遠く感じる」
「距離が遠いと心も離れるよね」
「そんなことないだろ」
「そう?」
「少なくとも、俺はね」
皐月はあえて真理はどうなのかを聞かずに店内を見て回った。皐月の家の近くにはドラッグストアがない。薬を買う時はいつも近所の小さな薬局なので、こういうタイプの店はあまり来たことがないから少し楽しい。
お目当ての弁当や総菜のコーナーを見つけたが、そこには目もくれずに化粧品売り場へ行った。
皐月はファッション雑誌を読んでいるので、メイクのことは少し知識がある。今日は初めて真理の化粧をした顔を見たので、ちょっと売り場で本物のメイク道具を見てみたくなった。
「真理のメイクって、凛姐さんの口紅を使ったんだよな?」
「うん。だって私、口紅持っていないもん」
「同じものを使うと、雰囲気が似てくるな」
「えっ、ヤダ……」
「なんで? 凛姐さん、きれいじゃん。でも真理のメイクって、凛姐さんとだいぶ違うよな。きれいだけど、なんかかわいい」
「ファッション誌にメイクのやり方が出てるから、その真似をしただけだよ。メイクの動画も見たことあるよ」
「そっちの勉強は熱心だな」
「まあ、女の子だからね。それに『勉強は』じゃなくて『勉強も』でしょ?」
二人のまわりに誰もいなかったので、皐月は真理の手を取った。外では人目が気になるので、こういうことはしない方がいいと自制心が働く。だが、今はコスメ売り場にいる。ここは人がいないので、少しくらいなら大丈夫だ。
「こうすれば心は離れないだろ」
「さっき言ったこと、気にしてくれてたの?」
「当たり前じゃん」
「……ありがとう。嬉しいけど、こういうことはしない方がいいと思うよ」
真理が皐月の手を振りほどいた。真理は少し哀しそうな顔をしていた。
「どういうことだよ?」
良かれと思ってしたことを否定され、皐月は少しイラッとした。
「皐月は性格的に誰にでも過剰に優しくしそうだから、ちょっと心配なんだよね」
「なんだ、ヤキモチか?」
「違う。優しくされた女の子が皐月のことを好きになっちゃったら、どうするの? そういう子が何人も出てきたらどうするの? 困るのは皐月だよ」
「なんだよ……そんなのお前の妄想だろ。俺はそんなにモテねえよ。博紀じゃあるまいし」
「……だったらいいんだけど」
真理が買い物かごにピンクのリップを入れた。芸妓衆が絶対に使わないようなかわいい色だ。及川祐希が出かける時にしているリップがこんな感じの色だ。
「リップ買うんだ」
「やっぱりかわいい色がいいから……。お母さんのだとちょっとイメージが違うんだよね」
「後で塗ってみる?」
「塗ってほしいの?」
「うん。見てみたい」
「じゃあご飯食べた後、化粧直しするね。でも、すぐに滅茶苦茶にされちゃうんだろうな」
大人っぽい化粧のせいなのか、この時の真理の微笑は艶めかしくて、皐月には刺激が強かった。




