232 自分は無敵
狭い路地にジャンボタクシーが入って来た。百合たちのお座敷のお迎えだ。藤城皐月は流れるままにしていた涙をぬぐい、窓を閉めて急いで階下へ下りた。芸妓姿になった百合と頼子が家を出ようとしていた。
「皐月、行ってくるからね」
「外で見送るよ」
皐月は百合と頼子に続いて家の外に出た。タクシー乗務員は永井明彦だった。タクシーを下りてバックドアを開けて待っていた永井が皐月を見てニヤニヤしていた。
「この前、姫街道で会ったね」
「何のこと?」
やはり永井は気付いていた。そして皐月がとぼけていることも察してるだろう。永井ならこのことを百合には言わないはずだ。
タクシーにはすでに凛と満と薫が乗っていた。皐月を見た凛が手を振ってくれた。真理は少し凛に似てきた。美しく着飾った凛を見て、皐月は思わずドキッとした。
最後列に座っていた満が車の窓を開けて顔を出した。
「皐月、元気にしてた?」
「ちょうど今、元気になったところ。満姉ちゃん、きれいだね」
「あはは。ありがとう。あれっ? 皐月ってこんなに背が高かったっけ?」
「もう満姉ちゃんのこと追い抜いちゃってるかもね」
「そうか〜。これからどんどん背が伸びて格好よくなるね!」
百合や凛がいるせいか、今日の満はいつもよりもおとなしかった。華やかな和服を着た満はとても美しかった。奥で微笑んでいる薫もきれいだ。
助手席に座ろうとする頼子を制止して百合が座り、頼子は百合の後ろの席に座った。荷物を収納し終わった永井がバックドアを閉め、運転席に乗り込んだ。
「永井さん、気をつけてね」
「皐月君、大丈夫だよ。任せておいて。ちゃんと安全運転するから」
永井のいつもの台詞を聞き、皐月はみんなを見送った。この後、永井は明日美を拾って安城のお座敷へ向かう。
皐月は家の中に戻った。一人の家は久しぶりだ。頼子たちがこの家に来るまではいつも一人だった。なんだか懐かしかった。
テーブルの上にある夕食代を手にした。自分の分をポケットに入れ、祐希の分のお金の写真を撮った。その写真を及川祐希に送り、自分は真理と一緒に夕食を食べることを伝えた。
祐希からすぐに返信が来た。メッセージには祐希も外で食事をしてくると書かれていた。誰と食事をするかまでは書かれていなかったが、皐月には想像がついた。
皐月は続けて真理に「今から行く」とメッセージを送った。真理からはただ一言「待ってる」と返って来た。
皐月は小百合寮の全ての戸締りをして、自分の部屋と祐希の部屋を仕切っている襖も閉めておいた。玄関や居間、階段や二階の廊下の電気はつけたままにしておいた。暗くなってから帰って来る祐希に怖い思いをさせたくないからだ。古い和風旅館だった小百合寮は、夜になると怖い。皐月はこの家に引っ越して来て以来、ずっと夜の二階の暗さを怖れている。
玄関の行燈に明かりをともした。小百合寮とだけ書かれた小さな行燈は、夜になると闇が深くなる家の前の路地を優しく照らす。皐月は一人で外で外食をした帰り、この行燈の明かりに救われていた。誰もいない虚ろな家でも、この小さな明かりがあればホッとする。
皐月は頼子たちが家に来る前の、一人でパピヨンに夕食を食べに行ってた頃のことを思い出した。あの頃も寂しかったが、今は別の寂しさがある。家は常に人がいるようになって賑やかだが、やはり気を使う。小百合がいない時は余所の家にいるような気分になることもある。
それは祐希も同じなのかな、と思う。せめて今日だけでも、祐希にはこの家で一人になる解放感を味わってもらいたい。寂しいかもしれないけれど、嬉しくもある。皐月は今、久しぶりに伸び伸びとしている。
できることなら自分自身がその感覚をもう少し味わいたいと思った。だが今は真理と会う方が幸せだ。そう考えると、これは祐希も同じなのかもしれない。これから祐希も恋人と時間を気にせず、一緒に過ごすのだろう。
短時間でいろいろ考えたせいか、皐月は疲れてしまった。
玄関の古い格子戸に鍵をかけ、皐月は家を出た。
9月も終わりに近づくと夕方は涼しくなる。湿気の少ない秋の空気が気持ちいい。外は少し暗くなり始めた。
街の明かりが灯り始めた駅前商店街を抜け、豊川駅に着いた。東西自由通路を上りながら、皐月は祐希のことを考えた。
以前の皐月は祐希の恋人のことを考えると嫌な気持ちになっていた。今思えば、あれは嫉妬だったのかもしれない。今でも嫉妬しないわけではないが、以前ほど胸を焦がすことはなくなった。
真理のマンションの前まで来た。心のざわつきはさっきよりも高まっている。だからといって、もう引き返すことはできない。今ここで引き返せば、恐らく真理は悲しむだろう。
エントランスのガラスに映る自分を見て、皐月は苦笑した。余りにも格好悪かったからだ。姿勢が悪く、少ししょぼくれていた。いくらなんでも、このままの姿で真理に逢いに行くことはできない。
立て直さなければいけないと思った。皐月は調子のいい時の自分にキラキラ光っているものが見える時がある。そう言う時の自分は無敵だと思っている。
試しに最近ショート動画で覚えた流行りのダンスを踊ってみた。元々の振り付けが格好いいので、ちゃんと踊れば誰でも格好良く見える。最初は動きがダルかったが、2回目は動きに切れが出て、それなりにいい感じになってきた。もうしょぼくれた感じがなくなった。
(割と単純だな、俺って……)
3回目を踊りながらご機嫌になっていたところに、マンションから初老の女性が出てきた。あと少しでダンスが終わるので、構わずに踊り続けた。最後に決めのポーズをすると、その女性が拍手をしてくれた。
「こんにちわ」
皐月は恥ずかしい気持ちをやせ我慢で耐えて、笑顔で彼女に挨拶をした。
「こんにちは。あなたの踊り、素敵だったわ」
「本当ですか? ありがとうございます!」
「今時の子は格好いいわね。いいものを見せてもらったわ」
手を振ったその女性は駅に向かって歩いて行った。彼女に褒められて、皐月はすっかり気分が良くなった。
「さて、行くか」
エレベーターのボタンを押すと、すぐに扉が開いた。エレベーターの鏡に映る自分の姿に、もう不満はなかった。光こそ放っていなかったが、姿勢もよく、自信を取り戻したように見える。これから真理に会いに行くのにマイナス思考になる必要なんてない。
皐月は鏡に向かって右ストレートを一発入れた。シュッと短く鋭く息を吐いた時の音が、パンチで空気を切り裂いたように聞こえて気持ちがいい。エレベーターが止まって背後の扉が開くと、皐月は元気良く振り向いた。そして、弾むようにエレベータの外に出た。




