231 窓辺での思索
藤城皐月は二階の窓の欄干に肘をつき、雲の流れる空を見ていた。一瞬、強い風が吹いた。風が顔に当たり、前髪が靡いて額が出た。窓の外は寂れた路地で、今は誰も歩いていない。
今日は夕食の時間を気にせず、栗林真理と長く一緒にいられる。今までの皐月なら胸が高まっていたかもしれないが、今日ばかりは妙に心がざわつく。
江嶋華鈴からの誘いを断り、泣かせてしまったこと。明日美への想いが叶ったこと。それらの思いを意識から外して、これから自分は真理に逢いに行く……。
皐月はこの動機に性欲が大きく占めていることを否定できない。かつて悪友の花岡聡に投げかけられた発情期という呪いの言葉が脳裏をよぎる。自分のことを悪い奴だ、最低な奴だ、穢れた奴だと考えてしまう。
だが自己否定ばかりしていられない。発情期の何が悪いのか、発情期上等だ、と反発したくもなる。もっと悪い男になってやろうか、いっそ最悪のクソ野郎になってやろうか、とさえ思ったりもする。
(華鈴の涙はキツかったな……)
これからも女の子を泣かせることがあるんだろうな、と思った。複数の女子と恋愛をしたら、どんなひどい状況になるのだろうか。恋愛関係にならなくても、複数の女子から好意を寄せられたらどうなるのだろう。
女子を泣かせたらフォローできる男になるべきなのか。女子を絶対に泣かせないような誠実な男になるべきなのか。あるいは女子を絶対に泣かせない技術を身につけるべきなのか。他にも色々なパターンがあるだろうが、皐月にはまだどうするべきか決められそうにない。
窓の外は静かだ。皐月は自分の眼に見える範囲には自分一人しかいないことに気が付いた。この時、豊川稲荷で筒井美耶と交わした会話を思い出した。
――じゃあ藤城君が一番好きな子って誰なの?
――一番好きって、今か?
――そう
――今だったら筒井、おめえだよ
誰が好きかとしつこく聞いてくる美耶を適当にあしらおうとした言葉だ。その理屈はこうだ。
自分の世界には今、美耶しかいない。だから誰を好きかと言われたら、美耶のことしか選びようがない。だから美耶が一番好きだ。
思い出すと、我ながらなんて屁理屈だと笑ってしまう。選びようがないとはひどい言い草だ。さすがに美耶は反論した。
――じゃあ私が目の前にいなかったら一番好きじゃなくなるってこと?
――そりゃそうだろ。だってその時は俺の世界にお前はいないんだから
――目の前にいなくたって私はいるよ
――それは……いるのかもしれないけど、いないかもしれないじゃん
――いるに決まってるでしょ! 変なこと言わないでよっ
今、窓の外を眺めている皐月の眼の前に美耶はいない。華鈴も明日美もいない。真理もいないが、もうすぐ皐月の眼の前に姿を現す。だが、真理はまだいない。
事実、今は皐月の世界に誰もいない。これはとても重要なことなんじゃないか、というのが皐月の予感だ。理屈はわからない。
――悪ぃ。もちろん筒井はいる。ただ俺にとっては次に会うまでの筒井は記憶の中の人っていうか、概念のような存在というか……要するに不確定じゃん。そういうのって、なんか儚くない?
皐月は美耶との会話の後、時々この時の自分の言葉を思い出すことがある。
思い出や体験は全て記憶だ。動画や漫画で味わった疑似体験による感動も記憶、勉強で覚えた知識も記憶だ。これらの記憶には強弱はあっても違いはないんじゃないか、と皐月は疑っている。
記憶は脳に刻まれている情報ということになっている。だが、あの脂肪の塊のような臓器に記憶が刻まれているとは、自分の直観に反している。本当に記憶は脳に格納されているのだろうか。
オカルト的な発想だが、人の記憶はどこか巨大な記憶装置に格納されていて、人はそこから記憶を呼び出しているのではないか。脳は記憶装置ではなく、記憶装置との通信装置なのではないか。
そんなことを考えると人間そのものが怪しい存在に思えてくる。そして自分自身の存在も……。
(気持ち悪いな……)
皐月は無性に真理に逢いたくなってきた。同じ時空を二人で過ごしたい。触れ合っていれば、自分の存在の胡散臭さを忘れることができるかもしれない。
(どうして俺はこんなにも寂しいのか……)
窓の外の空を見上げ、皐月はもう一度考えてみることにした。
目に見える世界が全てなら、自分と離れて客観的に存在するものを否定することになる。これも自分の直感に反するな、と皐月は思った。この世界はゲームじゃない。でもこの世界が仮想空間かもしれないという話は同級生の神谷秀真から聞いたことがある。もしこの世界が仮想空間なら、この世界はゲームだ。
皐月が美耶に言った言葉は、秀真から聞いた話に影響された戯れ言に過ぎなかったのかもしれない。それに、今は分からないことの判断を自分の直感に頼っているが、自分の直感が絶対に正しいとも限らない。
(もうやめた……)
何が何だかよくわからなくなってきた。皐月には集中力が長続きしないという深刻な欠陥がある。その欠点を補おうと、何かを考える時は頭を高速回転させようとする。こういう方向に努力を続けていると、瞬発力に特化した脳になりそうだ。
同級生の吉口千由紀は読書にも読書特有の体力が必要だと言った。皐月は思索にも特有の体力があるのだろうと考え、今の自分には思索する体力に欠けていると思っている。皐月はこういう方向に脳を鍛えるべきなのかもしれない。
また、思索に必要な知識がなさ過ぎるとも痛感している。世界を理解したり、考えをまとめ上げるための情報がない。自分の無知に嫌気がさして、余計に集中力を削いでいる。だから勉強をして、知識を増やせば少しはましな頭になるのかもしれない。
(面倒くさいな……)
物を深く考えることは自分の気性に合わないかもしれない、と皐月は思った。だがこれは悔しい。自分の脳の働きが低劣だと認めることになる。
(自分にいいところなんてあるのだろうか……)
無性に悲しくなってきた。空を見上げていると、空の向こうにある漆黒の闇に消えてしまいたくなった。皐月はいつしか涙を流していた。




