230 好機到来を喜んではいけない
家に帰ると藤城皐月の母、小百合が着物姿でいた。どうやら安城のお座敷には及川頼子も行くらしい。頼子がこの家に住み込んでから初めての遠征だ。
「ああ、いいところに帰って来た。今日は頼子もお座敷に行くから、晩ご飯は外で何か適当なものでも食べて」
「頼子さんも行くんだ。大きいお座敷なんだね」
「今日は芸妓が多ければ多いほどいいのよ。豊川の芸妓も総動員よ」
好機到来に皐月の胸は高まった。これで今日は夕食の時間を気にせずに栗林真理のところへ行ける。
「京子お母さんや和泉姐さんも行くの?」
「さすがに今日は賑やかしだから、若い子だけが呼ばれたんだけどね。でも私は若くないか」
小百合はケラケラと笑っているが、頼子は少し心配顔だ。芸妓は色より芸を売る仕事なので、年齢に上限はない。老芸妓の京子や和泉にも筋のいい御贔屓がいる。
小百合は仕事が途切れないくらい忙しいので、芸妓として人気がある。だから芸妓としてはきっと若い方なのだろう、と皐月は楽天的に捉えることにした。
「帰りは遅くなるの?」
「ちょっと遠いから、いつもよりは遅くなるかな。でも今日中には帰って来れるから。自分でお風呂を沸かせて、先に寝てなさいね」
「わかった」
皐月は昂る気持ちを抑え、情報収集だと悟られないように、いかにも初めてのことに戸惑っている風に振舞おうと努めた。
「ところでさ、ビデオ通話はもうしなくてもいいよ。祐希もいるし、俺はもう一人ぼっちじゃないから、心配しなくても大丈夫だよ」
小百合から笑顔が消えた。駄目押しは失敗だったか……目論見がバレたかもしれない。だが、皐月にしてみればビデオ通話がかかって来た時に、自分の部屋にいないと不審に思われるかもしれないので、不安を払拭しておきたかった。
「そうね……もういいか。あんたも大きくなったからね。でも、ちょっと寂しいな……」
「そんな……寂しかったら今まで通り通話してきてよ。別に避けてるわけじゃないんだから」
どうやら取り越し苦労だったようだ。緊張が緩むと、皐月は珍しく自分から母親に触れた。背が伸びたからか、母が小さくなったと感じた。
「ありがとう。でもね、私もあんたのことを縛ってるんじゃないかなって気になってたのよね。私が電話するまで、眠くても起きていることもあるでしょ? だからそろそろ私があんたに依存するのを卒業しないといけないかなって思ってたのよ」
「そんな風に言われると、俺の方が寂しくなっちゃうな……」
小百合の部屋から小百合の着物を着た頼子が出てきた。頼子がヘルプでお座敷について行く時はもう少し地味な着物を着ていたので、皐月が華やかな着物姿の頼子を見るのは初めてだ。
「うわっ、頼子さん綺麗!」
「本当? ありがとう」
照れ隠しで頼子を褒めたつもりだったが、頼子は本当に綺麗だった。皐月は頼子に祐希の面影を見た。
「あんま芸妓さんっぽくないね。どっちかって言ったら、芸妓よりも普通の和服美人って感じだね」
「そう? ねえ小百合、どうしよう……。私、失敗しちゃったかな?」
「大丈夫よ。今時の田舎の芸妓なんて何でもありだから。満や薫なんてコンパニオンみたいだし、明日美もなんか独特だし。私だって昔の芸妓よりも現代風にしてるんだから。まあ人はそれを若作りって言っているんだけどね」
頼子のホッとした顔を見て皐月は安心した。母のフォローに皐月は芸妓・百合の神髄を見たような気がした。
不安がる頼子を見ていると、皐月は自分の嫌なところに気付いてしまった。それは真理と時間を気にせず会える喜びの裏で、頼子から解放される喜びをも感じていたことだ。
「頼子さん、写真撮らせて」
「いいけど……ちょっと恥ずかしいね。もうおばちゃんだし」
「恥ずかしくないよ。頼子さん、すっごくきれいなんだから」
「ありがとう。皐月ちゃんって女の人を褒めるのが上手ね。お世辞に聞こえない」
「当たり前じゃん。お世辞じゃないんだから」
皐月は頼子が家を開けることを喜んでしまったので、その罪悪感を埋め合わせようと少し大げさにはしゃいでみせた。だが、やましさの上塗りにしかならなかった。
「祐希に頼子さんの写真、送っておくね」
祐希はまだ家に帰っていない。スマホで祐希に写真を送るとすぐに返信が来た。皐月はそのメッセージを頼子に見せた。
「ねっ、祐希も綺麗だって言ってるよ」
「私のこと、綺麗なんて言ったことがなかったのに……あの子も気を使えるようになったのかしらねぇ……」
頼子は感情を抑えながらも、とても喜んでいるように見えた。
「皐月、夕食代、テーブルに置いておくからね。祐希ちゃんの分もあるから」
小百合に言われたテーブルを見ると、二人分の夕食代がそれぞれ千円ずつ置かれていた。皐月はテーブルの上のお金の写真を撮った。後で祐希に送るための用意だ。お金に手をつけるのは、百合と頼子が家を出てからにしようと思った。
皐月は早く真理の家に行きたかった。だが、今行っても凛姐さんがまだ家にいるかもしれない。しばらくは家で待っていて、時間調整をしなければならない。
二階に上がり、自分の部屋にランドセルを置き、窓の戸締りをした。通りに面した窓だけはまだ空けたままにしておき、窓辺に佇んだ。皐月は欄干に手を置いて外を眺めた。もう真夏のような蒸し暑さがなく、涼風が気持ちいい。
暇を持て余している皐月は自分を落ち着かせるために真理へメッセージを送った。
「ママと頼子さんを見送ったらそっちに行く。今日は晩飯を一緒に食べよう」
真理からもすぐに返信が来た。
「家に来る前にメッセージ送って」
素っ気ない一言だったが、真理が当たり前のように自分のことを待っていてるのがわかって嬉しかった。家の前に迎えのタクシーが来るまで、皐月は窓辺でゆっくりと待つことにした。




