228 体は一つしかない
藤城皐月と江嶋華鈴は水野真帆が道を右に曲がるまで見送った。二人は左の細い路地へ入った。
「今日もこの前見たきれいな芸妓さん、いるかな?」
「さあ、どうだろう……」
華鈴の言ったのは明日美のことだ。華鈴と一緒に歩いているところを明日美に見られたくない。通学路を帰らずに検番を避けることも考えたが、さすがにそれは不自然だ。皐月は覚悟を決めて、いつも通り検番の下を通ることにした。
検番の裏手の二階の窓は全て閉まっていた。少なくとも二階の稽古場に芸妓は誰もいないようだ。
今晩は百合も凛も安城のお座敷に出ると言っていた。安城で大きな宴会が開かれ、地元の芸妓では人数が足りなくなると、豊川の芸妓組合に応援が要請されることがある。皐月は明日美もお座敷に呼ばれているのかもしれないと思った。
「ねえ、藤城君。この後、家に来ない?」
華鈴の声が少し震えているように聞こえた。顔がこわばっているようにも見える。皐月は思わず立ち止った。
「俺、この後、友だちの家に遊びに行く約束をしちゃっててさ……。今日はちょっと行けないや……ごめん」
「あっ、そんな、いいよ。こっちが急に言ったんだし……。最近は委員会ばっかりで、友だちと遊ぶ時間がなかなかとれないよね。こっちこそゴメン」
「なんで江嶋が謝るんだよ。……バカだな。でも、誘ってもらって嬉しかった。ありがとう」
華鈴は何も答えずに、俯きながら歩き始めた。皐月はしばらく華鈴の無言に付き合おうと思い、一緒に隣を歩いた。大通りに出る手前で華鈴が立ち止まり、鼻をすすった。泣いていた。
「大丈夫か?」
「……こんな顔で通りに出るの、恥ずかしいな」
皐月はポケットからハンカチを出し、華鈴の涙を拭いた。入屋千智にハンカチを持ち歩くように言われたことが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
「ありがとう。私もハンカチ持ってるから。それにもう大丈夫」
涙を拭い、無理に微笑む華鈴を見ていると胸が締めつけられるような気持ちになる。こんなに健気な華鈴を見るのは初めてだった。
皐月と栗林真理は会う約束をしているわけではない。ただ今日のお座敷が安城だと言葉を交わしただけだった。
真理の家へ行こうと思ったのは皐月のひとりよがりに過ぎない。真理は自分と会いたいに違いない、と勝手に解釈しているだけだ。
いっそ真理に会いに行かないで、このまま華鈴と一緒にいようかと思った。だが寂しそうな顔をしていた真理のことを思うと、会いに行かずにはいられない。それに真理も自分に会いたがっているという確信めいた感覚がある。
皐月は自分の身体が一つしかないことを生まれて初めて恨めしいと思った。もしも身体が二つあれば、華鈴とも真理とも一緒にいられる。
これから先、好きな女の子が増えていくとどうなるのだろうか。恋人は一人に絞らなければならなくなるのか。恋を知り始めた皐月にはまだよくわからない。
「行こうか」
皐月は華鈴の手を取って、大通りに出るまで軽く引っ張った。そのまま少し手を繋ぎながら歩いたが、皐月からそっと手を離した。豊川稲荷のスクランブル交差点の歩行者の信号は赤だった。
「今日は表参道を歩きながら帰ろうか」
「えっ? 通学路じゃないけど……」
「いいじゃん、そんなの。今日は観光客ごっこをしよう」
信号が青になったので横断歩道を渡り、土産物屋の前の道を歩いた。平日の午後だから、参拝客の姿は全く見られない。商品が綺麗に陳列されているのがかえって寂しさを誘った。
「お客さんいないな。京都はきっとたくさん観光客がいるんだろうね」
「修学旅行生とか外国人とか、いっぱいいそうだよね」
「江嶋って豊川稲荷に遊びに来たりする?」
「まあ地元だからね……。でも遊びに来るとか、ほとんどないかも。家族と初詣に来る程度だから、来ても年に一回くらいかな。藤城君はよく遊びに来るの?」
「来るよ。家が近いから、庭みたいなもんだよ」
朝早く目が覚めた時、皐月は用もないのに豊川稲荷へ行くことがある。人のいない境内で一人ぼっちになると、妙に楽しい。奥の院の森の空気が気持ちいい。
「前に進雄神社でもよく遊ぶって言ってなかった? もしかして藤城君って神社とかお寺のこと好きなの?」
「そうだね……好きかも。なんかあの独特の空間が好きなんだよね。でも神様とか仏様とかはよくわかんないから、最近はそういう勉強を始めている」
「じゃあ修学旅行はすごく立派なお寺や神社を見られるんだから、楽しみだね」
「ああ。俺、そういう大きい神社とかお寺って、豊川稲荷しか行ったことがないから、マジで楽しみだ」
華鈴が元気を取り戻したようで、皐月は少し安心した。華鈴とはまた会う機会がほしかった。しかし、そんな衝動を抑制しようとする心理も同時に働いている。
真理と会おうとしている時に華鈴に誘われて、皐月は自分の罪深さに初めて気が付いた。聡の言う女好きという言葉に含まれていた棘が時空を超えて皐月の心に深く食い込んだ。今の皐月にはこの棘が抜けることを全く想像できない。




