116 新世界
藤城皐月が芥川龍之介の『歯車』を手にとって古本屋の竹井書店を出た頃には、もう日の暮れが迫っていた。
赤く染まる空を見上げていると、皐月は漫画を買って帰る時とは違う高揚を感じていた。この小さな文庫本の中に自分の知らない世界がある……弾む気持ちが家路につく足を軽くしていた。
皐月は新学期の席替えで二人の少女を知った。ひとりは芥川龍之介の『羅生門』を読む二橋絵梨花といい、西洋人形のような美少女だ。
もうひとりは川端康成の『雪国』を読む吉口千由紀といい、眼鏡の似合う知的な少女だ。
文学を語る彼女らは幼馴染の栗林真理とは異なる、神秘的な魅力をたたえていた。その魅力が彼女たちそのものから出たものなのか、あるいは彼女らが携えていた文豪による小説から出たものなのかは、今の皐月にはまだわからない。
皐月は文学を通して彼女たちの内面世界に触れることで、現実世界の表面的な付き合い以上の深い繋がりを得られることを期待している。
板塀から張り出した松の枝は小百合寮に影を落としていた。暮れなずむ路地を歩いて家の玄関まで来ると、格子戸に手をかける頃合いを見計らったかのように行燈の明かりが灯った。古ぼけた行燈には人感センサーをつけていなかったので、この小さな偶然を皐月はささやかに喜んだ。
三和土には少し汚れたスニーカーがあった。及川祐希はもう高校から帰っているようだ。
お勝手から揚げ物の匂いがしてくるので、皐月は急にお腹が空いてきた。何でもいいからつまみ食いがしたくて台所へ直行した。
「頼子さん、何を作ってるの?」
「キャベコロよ」
皐月の家で暮らしている、母の同級生の及川頼子が夕食を作っていた。頼子がこの家に来て以来、今まで以上に手作りの食事を食べられるようになった。
「キャベコロ? キャベコロって何?」
「キャベツコロッケの略かしらね。ジャガイモを使わないでキャベツを使ったカレー味のクリームコロッケで、田原市のご当地コロッケなんですって。皐月ちゃん、食べたことないの?」
「食べたことないなぁ。聞いたこともないや」
「豊川と田原はちょっと離れているから、あまり知られていないのかもしれないわね。私は豊橋で育ったから、知ってたの」
自分の知らない食べ物を出されると、他人と暮らしていることを思い知らされる。皐月は頼子の作る食事をいただくたびに、友達の家でご飯を御馳走になっている時のような緊張感を感じている。その感覚がいまだに消えていない。
「俺はコロッケって言ったら近所の肉屋のジャガイモしか入っていないコロッケばかり食べてるよ」
「ジャガイモしか入ってないの? ひき肉やタマネギもなし?」
「そう。お店で揚げたてのを買って、おやつにするんだ。安くて美味しいよ。俺はその肉屋のコロッケが一番美味いと思ってる」
「揚げたてか〜。肉屋だから、揚げ油はラードかしら? それは美味しいそうね」
「でもママは肉が入ってないから嫌って言うんだ。わかってないよなぁ」
「今度、私も食べてみようかしら。そんなに皐月ちゃんが美味しいって言うのなら、私も一度食べてみたいわ」
「ジャガイモしか入ってないけど、マッシュした中に芋のかたまりも入っていて、食感が変わるのがいいんだよ。それに甘くないし、塩胡椒で味付けがされていてね、ソースかけなくてもすむから、外で遊びながらでも食べられるんだ」
「甘くないのはいいわね。今作ってるキャベコロも甘くないわよ」
「本当? 楽しみ!」
皐月は優しい頼子には何の不満もなかった。今はまだ慣れていないだけだと思うことにした。




