204 目を閉じなければ入れないもう一つの世界
及川祐希から聞きたいことは聞けたので、藤城皐月は自分の部屋に戻ろうと思った。
祐希と話しているのは楽しいが、今は明日美のことを考えたい。祐希に対してドキドキした頃もあったはずなのに、今の皐月は祐希に対して学校の同級生のように平常心で接することができる。
「ねえ、皐月って格好よくなったね」
「祐希も? 最近よく言われるんだ」
「自分で言う?」
祐希がゲラゲラと笑い出した。あまりにも笑い方がひどかったので、皐月はバカにされたのかと思ってムッとした。ひとしきり笑った後、涙目で軽く謝られた。
「皐月が格好よくなったのは日焼けが取れてきたからかな。肌の色が白くなってきたね」
「なんだ、そんな理由か……」
「いいじゃない! 肌が白くなったんだから。私なんかなかなか白くならなくて……もう皐月に負けてるよ。悔しい〜」
「はははっ。俺、元々色白だからね」
皐月は日焼けをしても一カ月くらいで元の白い肌に戻ってしまう。冬になるとさらに白くなる。
「あっ、そうか。だから明日美は俺に『色白だから日焼けしたら勿体ない』って言ったのか……」
「そうだよ。色の白いは七難隠すって言うからね。この諺は色白の女性について言ったものだけど、男の子もイケメンになると思うよ」
「ふ〜ん。俺はてっきり日焼けした肌の方が格好いいと思ってた。じゃあさ、冬でも半袖半ズボンの男子って女子から見たらどうなの?」
「えっ……さすがにそれはないでしょ。見てるだけで寒そうじゃない。それにバカっぽい」
「ガーン! バカっぽかったのか……。俺、冬でも半袖半ズボンって格好いいと思って、千智に自慢しちゃったよ。」
「あ〜あ、やっちゃった。千智ちゃん、引いてたでしょ」
「『それって変ですよ』って言われた。一緒にいたら恥ずかしいとか、冬になったら私に寄ってくるなとか、もう散々な言われようだった」
「皐月って美的感覚がズレてるよね」
皐月は自分の部屋に戻り、ベッドに潜り込んだ。いつもなら寝る前に音楽を聴いているが、今日は何も聴く気にならなかった。
今こそ明日美と初めてキスをしたことの余韻に浸れるかと思ったが、今日は色々なことがあり過ぎた。今じゃなくてもいい雑多なことが次々と思い出され、追憶に耽る邪魔をする。ただ明日美のことを思い出したいだけなのに、そんな簡単なことがなかなかうまくいかない。
千智からメッセージが来た。
中身は他愛もない話だった。いつもなら嬉しいのに、今日は明日美のことを想いたいから今一つ気持ちが乗らない。そのことを悟られたくないので、皐月は丁寧に返信をした。
こんな日に限って珍しく真理からもメッセージが届いた。
勉強の調子が悪いみたいだ。今日は凛姐さんも家にいて、そのせいで勉強のペースが乱されるらしい。また家に遊びに来てほしいと書かれていた。少し前の皐月なら、こっそり家を抜け出して、すぐにでも真理に会いに行っていた。
3カ月ぶりくらいに筒井美耶からもメッセージが届いた。
教室の席が隣同士になったことがきっかけでアカウントを交換したが、その日の夜にメッセージの嵐が来たので、もう送ってくるなと怒ったことがあった。それ以来、一度もメッセージが来たことがなかったので、今日のメッセージは遠慮がちな内容だった。修学旅行実行委員の話題だったので、これも丁寧に答えた。
女の子たちのカットインのせいで明日美との記憶がどんどん過去の物へと追いやられてしまう。みんなからのメッセージを鬱陶しいとは思わないが、今だけはそっとしておいてほしいと思いながらも、彼女たちとしばらくやり取りを続けていた。
メッセージの返信が重なって少し疲れた。皐月はベッドに横になり、目を閉じて目に映る世界を遮断した。
検番を出て明日美と別れる時、皐月は明日美からメッセージアプリのアカウントを教えてもらっていた。自分から明日美にメッセージを送れば明日美と二人の世界に入れたのかもしれない。だが、皐月にはそれができなかった。
高嶺の花に手が届いたのは確かなことだ。だが、それを摘み取るにはまだ至っていない。だが慌てなくてもいいのかもしれない。今日あった出来事はすべて幻ではなく現実なのだから。
皐月はこのぼんやりした不安を解消するために、明日美とキスをしたことを何度も思い返した。その時の唇の柔らかな感触を何度も繰り返し思い出していると、自分の体が変化した。記憶だけでなく全身で明日美を感じると、ようやく安心することができた。急に眠気が襲ってきた。
眠る直前になり、やっと皐月の脳裏に明日美の姿が鮮明に甦ってきた。目に見えないはずなのに、皐月には明日美の美しさ、温かさ、柔らかさが、現実で体験した時よりもずっと研ぎ澄まされて感じられた。
夢と現実の狭間なのかもしれないが、やっと明日美に逢えた。しかし眠い。このまま眠りたくない……必死で抗おうとしたが抵抗むなしく、目を閉じなければ入れないもう一つの世界へと皐月は沈んで行った。




