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閑話 法衣子爵令嬢の『感謝の祈り』

 


 ―――― 景色が!

      お父様の御顔が!

          鮮明に見える!!




 いいえ、違うわ。 今までも、見えてはいたの。 でも、薄らぼんやりと、全ての輪郭が曖昧で、霧の中で一人佇んでいる様な気がしていたわ。


 良く見ようとして眼を細めてしまう癖が出来てしまった。 眉も寄り、眉間に皺まで刻まれてしまっていた。 何時も、不機嫌そうな表情を浮かべていると、そう陰口も散々に叩かれた。 


 自分自身が嫌になる程に頑固で意固地な私が居たのは、ついさっきまでの事。


 鏡の前に座り、此方を見ている令嬢は…… 憂いの無い、満面の笑みを湛えていたの。 眉間には、深い皺も刻まれず、陰鬱な表情など欠片も無い、満面の笑みを湛えた、十五歳の淑女が其処に居たの。 


 明るい視界に只々、心が弾んでいたのよ。




             ――― § ―――




 貴族学習院に登院し始めた時から、『私の視線』は、他家の令嬢達の嫌悪(・・)の対象になっていた。 いいえ、その前からかも知れない。 同じ街区の令嬢達から、お茶会に招かれた事など無かったから。


 扇で表情を隠す女生徒とは違い、紳士に成る前の男児は明け透けに、言葉の刃をわたしに振るう。 ” 何を睨みつけているのだ? 何が不服なのだ? ” と。 ただ、良く見えないからだけだったのに…… 


 私の不機嫌そうな表情は、他人に『嫌悪感』を呼び起こしてしまった。 


 でも、私はそれを止める事が出来なかった。 貴族とは、他人と関わる必要があるから。 社交界…… 貴族社会で生きて行くのならば、相手の表情を読み取り、それに相応しい態度で接する為に必要な事だったのだから。


 普段から…… 良く見えない。


 見えないから良く見ようとする。 良く見ようとする度に、眉が寄り眉間に皺が走る。 まるで不快なモノを見る様に…… そして、相手に不快感を植え付ける。 その繰り返しが、相手にどれ程の悪印象を与えるか。 その事に気が付いた後は……


 段々と『人を見る事』をしなくなっていったの。 相手の表情を、相手の感情を……


 相手の声色だけで、判断できるように頑張ったのだけども…… それだけでは貴族女性の社交と云う、重要な役目に関しては『不十分』と云わざるを得ない。 相手の表情から情報を受け取るのは、貴族の女性としては、必須の技能。 この国の女性の社交では、『言葉』を交わす以上に、『掌 会 話(ヴォイレスサイン)』、『仕草会話(ムヴェトク)』の修得が重要視されるわ。



『言外に交わされる会話』にこそ、淑女の本音が隠される。 

 それを放棄してしまえば、まともな社交など出来はしない。

 だから、視力の矯正器具の補助が必要だと、強く感じて居た。 



 ええ、ありていに言えば『眼鏡』の必要性。 私の視力に関して、お父様を含め家族は、とても心を痛めてくれた。 でも、法衣子爵家である我が家では、『魔術治療』を受け付けない私の視力を補正する、『特別な眼鏡』を(あつら)える事など、かなり難しい。



 対価が…… 払えないのよ。 本当に、高価なモノなの。



 特別な魔道具とも云える、『視力矯正魔法具』。 私の目と同様の視界不良の症状を持つ方は、我が国では、決して稀では無い。 ただ、その様な方は、魔術治療である程度の期間は視力が回復する。 


 一般的に言えば、『視界不良』の問題は、男女関わらず、一定の割合で存在もしている。 男性に至っては、女性の倍以上も発現する。 内包魔力の多い方が患う病気として、認知されているわ。 




      ――― 『魔力障害』の一種と云う事でね。 ―――




 老境に至る方々については、その視力の歪みと近距離視力の低下は、魔術治療によってもなかなか改善せず、” 老化 ” の象徴として、扱われている。


 若年、老境の方、双方の視界不良に関しては、専門の魔術治療が確立されているの。 その治療を受ければ、ある程度の期間は、視界が明瞭に成る。 また、術式も確立している為、きちんと魔術の勉強さえしていれば、自分で自分に施術する事も、不可能では無いわ。


 ……でも、若年でその両方を兼ね備えてしまった上、肝心の『魔術治療(・・・・)』すら受け付けない私の目は、その症例も稀な、不治の病と云っても良いの。 ただ、良く見えないと云う事が、貴族女性としては致命的な瑕疵となってしまって…… お父様もお母様も深く私の行く末を案じて下さっていたの。



 我が家で準備出来たのは、『一本の眼鏡』。 とても大切に使われていたソレ。



 代々の法衣子爵の当主様方が晩年に使用されたと…… そう伝えられている、魔道具の『眼鏡』なのよ。 『視界の確保』、『利便性』、『手入れの容易さ』。 それらのみを追求した、太く重厚な(フレーム)に、分厚い魔導術式を刻み込んだ硝子が嵌っている、武骨な外見の…… 『眼鏡』だった。


 一応、見えはしたが、長年の使用により、硝子は曇り…… 曇り硝子の様な透明感。 これでは、視界を確保しているのか、目隠しをしているのか判らないわ。 あまり…… 『視界確保』としての役割は担って呉れなかった。


 そして、その重厚な外観は、私の顔の半分以上を占め…… なんとも形容し難い感じとなってしまう。 若年の女性貴族が掛ける眼鏡としては、余りに古臭く武骨に過ぎたの。


 お茶会にて、『詩歌の披露』が席題(・・)とされていた時、良く見えない視界を補助する為に、その茶会でその『眼鏡(・・)』を掛けてしまった。


 案の定、クスクス笑いと蔑みの視線が私に付き刺さり…… 二度と、人前では この『眼鏡』を掛けまいと、心に決めたのよ…… アノ時の情景は、今でも心の中に刻み込まれているのよ。 何時までも記憶に残る、侮蔑に満ちた視線の先の、自分でも認める程の『滑稽な姿』。


 でも…… 新しい『眼鏡』など、我が法衣子爵家の財政状況を鑑みると、願える筈も無く…… 不利益を承知で裸眼で過ごしていたの。


 それが、『私の失敗』の原因でもあるわ。 ヒルデガルド侯爵令嬢の表情を、見てさえいれば、あのような事には成らなかった筈…… 全力で言外の言葉で『拒否』( ・・ )されて居るのにも関わらず、お節介にも あの方の『侯爵令嬢』としての不備を指摘(・・)してしまった。 それも、私のこの不機嫌そうな表情でね……



 ―――― リッチェル侯爵令嬢の御不興も買う訳よ。



 法衣子爵家の没落と、歩調を合わせる様に、私の表情も硬く固まっていったの。 もう、笑う事は出来ないかもしれない…… と、その時は真剣にそう思ってしまった。 お母様の御不調の原因を探す為に、我が家に有る文献を貪り読んだり、深く深く悩む内に…… 表情と云う表情が抜け落ちて行ったの……


 強面となってしまった事も、貴族らしい態度を取れなくなってしまった事も…… もう、どうでもよくなったの。 お母様さえ元気に成られたら…… と、そればかり『考えて』いたのよ。




 ――― そして、転機は訪れた。

         あの日、あの時、あの場所で……




 神聖なる善き修道女エル様に、出逢えた。 お母様の御不調を晴らし…… 元気にして下さった。 特別な魔道具の『水差し』まで頂けた。 その上、不良神官の不正を異端審問官様に告発され、その証言を以て彼の方の罪は暴かれ…… 聖堂教会から『補償』を受けられた。 迷惑料と云える『見舞金』と云う名の、私達にとっては莫大なお金も…… 戴けた。


 お父様は、その後…… 不遇から脱却を果たす。 左遷のような職場から、文官ならば、誰もが夢見る『宰相府』に転属を要請されたと聞くわ。 ええ、お兄様も一緒に。 一体誰が、その手引きをして下さったの? 寄り親であるリッチェル侯爵家の誰か…… では、絶対に無い。


 あれ程…… 存在すら無視するか如くの対応をしていたのに、こんな好待遇を用意する訳など無い。


 お父様は『宰相府』に出仕するにあたり、寄り親の変更を申し出られ『宣言』された。 以前の『寄り親』である、リッチェル侯爵家の方々は、別段気にする様な事も無かったと聞くわ。 ええ、ええ、我がファンデンバーグ法衣子爵家は、彼等にとって『それだけの価値』しか、無かったと云う事。



 黒い感情が、私の心の奥底に芽生え…… 闇なる炎が静かに燃え上がる……



 でも、お父様も、お兄様も、清々しい笑顔で王城に毎日、意気揚々と向かわれているわ。 もう、過去の事にされて居るの、私と違って…… 我が家の男性陣は、自身に擦り付けられた『侮蔑』よりも、現在の状況に、深く感謝をしているのよ。


 実力と能力を認められ、夜半まで『邸』に帰ってこれぬ程、忙しくされている。 その忙しさが、自信と矜持を取り戻させたのかもしれない。 ええ、貴族の矜持をね。 だから、過去の事など、もう、どうでも良いのかも知れない。 


 新たな、『寄り親』でもある、キンバレー王国 宰相家 フェルデン侯爵様は、その職責ゆえか能力の有る者を、その能力一杯に働かせることに長けた方。


 自身の能力を振るう事に歓びを感じる、ファンデンバーグ法衣子爵家の男達にとって、この上ない『寄り親』と云えましょうね。 日々、嬉々として王宮に出仕するお二人。 そんなお二人を笑顔でお送りする、お母様の様子に……


 私の中の黒き炎は、徐々に小さくなり消え果て…… なんだかとても救われた気分になったの。




           ―――― § ――――




 お父様が休日を与えられた日…… ” 街に出よう ” と、連れ出され、とある魔道具店に赴いた。


 なんだか、とても嬉し気なお父様。 向かった先の魔道具店は、下級貴族がおいそれとは入れない様な、超高級店でもある。 おっかなびっくり、お父様の後に続いてお店に入ると、万事心得ていらっしゃる店員さんに、最高の『おもてなし』を受けつつ…… お父様が来店の目的を話されたの。



 娘に【特注品の眼鏡】を…… と。



 結果…… 世界が明るく色づいたの。 繊細な魔法符呪を施した妖精硝子は、弱く暗い私の視界を…… 劇的に変えてくれた。 普通の皆様方が見ているような世界を【わたくし】に見せてくれたの。 皆、こんな世界を見ていたの?




 ―――― 景色が!

      お父様の御顔が!

          鮮明に見える!!




 鏡の前に座り、此方を見ている令嬢は…… 憂いの無い、満面の笑みを湛えていたの。 眉間には、深い皺も刻まれず、陰鬱な表情など欠片も無い、満面の笑みを湛えた、十五歳の淑女が其処に居たの。 



 明るい視界に只々、心が弾んでいたのよ。



 魔法具店の御店主の上品な小父様が、わざわざこの特殊なレンズに合うフレームを用意して下さったのも、とても有難く感じたの。


 とても、素敵な眼鏡だったわ。 ええ、落ち着いた色合いの紅い下縁の眼鏡…… 眼鏡を掛けて、差し出される鏡を覗き込んで…… 一瞬そこに居たのが、誰か判らなくなった。 初めて見るのよ…… 自分の顔を。 詳細に…… 今まで、ボンヤリとしか見えていなかったのに…… ハッキリと自分の顔を認識できたのよ。


 私って…… こんな顔をしていたんだ……




「お嬢様の御顔立ちに、合うと思います。 通常の魔導レンズでは、この薄さは出せませんから、妖精硝子だからこその【逸品】とあいなります。 良くお似合いです」


「あ、ありがとう。 とても、良く見えるわ」


「そうで御座いましょうとも。 お嬢様の御目は、少々問題が御座います故、もし視界に何か不都合があらば、何なりとお申し付けくださいませ。 我が店の名を懸けて、全力で調整いたしましょう。 フレームの御色は如何ですか? 何色かご用意できますが、今回は私がお見立ていたしました」


「とても…… とても素敵です。 お見立て、有難く」


「勿体なく。 華奢な様に見えて、【不壊】の術式も付与しておりますので、少々の事では壊れませんので、ご安心を」


「そこまで…… 魔道具と云うのは、奥深い物なのですね」


「ええ、そうなのです。 こちらの眼鏡に関しましても、一流の術者が何か月も掛かっての付与と成りますので」




 ――― えっ? 



 付与魔法は…… そんなに大変なモノなの? 疑問が脳裏を走る。 あの方は…… 目の前で…… いとも簡単に…… 付与魔法を水差しに施していたのに?




「あ、あの…… 付与魔法と云うのは、それ程…… 大変なモノなのでしょうか? た、例えば、水差しに何らかの魔法を付与する場合…… そうですね、中の水を浄化する様な感じの魔法を付与するとして、それは容易いものなのでしょうか?」


「それは…… 難しゅうございましょう。 水差しならば、素材は土。 土は基本的に、魔力を保持できませんので、専用の精緻な術式を覆う形に準備せねばならず…… まして、内部の水を浄化するなど、かなり難しい術式を駆使しなくては、その魔道具を完成させる事など出来ないでしょう。 また、使用するとしても、莫大な体内魔力を要求されますので、実用的…… とは言い難い。 それでも、仰るならば…… そうですね、準備から含め、最低一年半は御待ち戴かないと……」


「えっと…… 例えば、莫大な体内魔力の要求を抑える為に、魔晶石を把手に付けそこから供給すると云うのは?」


「在り得ません。 その様な術式が有るのならば、私共が付与魔導士の為に、莫大な対価を支払い、教えを乞いたい程です」




 魔導に関して、知識の薄い小娘が、常識も知らずに語る言葉に、苦笑と共に応えている…… そんな雰囲気がありありと、良好な視界に映り込む。 


 ――― ここは、最高級の魔道具店。


 ここ以上のお店は、王都には存在しない。 その技術が有るとすれば、王宮魔導院にしかないと云われるほど。 だから…… それが、常識。 あの方から頂いた、あの【水差し】は、非常識が固まってできた様なモノ。


 つまり、あの方が、非常識な付与魔法術式を展開されたと云う事。


 これは…… もう、お尋ねする事はやめにしましょう。 あの【水差し】は、我が家の家宝。 その存在を表に出す事は無いわ。 ええ、秘匿します。 ” あの方の存在は、秘匿されるべきモノ ” と云う、お母様の御言葉は、私の根幹に据えられている。 だから、もう仄めかす事さえ避けるべきね。


 にこやかに、無知な娘を演じ、その場を笑いで誤魔化したわ。 ええ、ええ、それが最善手。 お父様も、何も言わずに居られたのだから、私の対応は間違ってはいないわ。


 その【特別な眼鏡】を掛けたまま、お店を後にする。 お父様が『お会計』時に、サインをされて居たの。 さらさらと、事も無げに…… 良く見える私の視界に、チラリと見た金額は、眩暈を覚える程のモノ……


 教会からの『見舞金』で支払うつもりだとしても、それでは十分とは言えない。


 ……大丈夫なのかな?




「お父様…… ありがとう御座います。 が、大層な対価が……」


「いやいや。 お前の目の事については、ソフィアとも色々と話し合った。 代金の事については、心配はいらない。 『寄り親』(フェルデン侯爵)様からの特別の思召しとして、頂ける事になったのだよ。 あの方は…… 良く心得ていらっしゃる、『寄り子(我等)』の事を良く見てらっしゃる」


「そう…… なのですか…… 皆様の『御心遣い』に、感謝申し上げます」


「いいのだよ、今まで苦労ばかり掛けていた。 親として情けない事に、なにもしてやれなかった。 お前の屈託のない笑みを見る事も出来なかった。 小さな喜びと共に暮らす事すら、出来なかった。 フェルデン卿は、そんな私に償う機会(・・・・)を与えて下さったのだ。 これまでの、不甲斐ない父を許しておくれ」


「お父様は、ご立派な紳士です! その様な事は仰らないで」


「あぁ、あぁ、ありがとう、ケイティ。 優しい娘に育ってくれた事を誇らしく思う」


「お父様……」



 余裕があればこその【御言葉】だと、強く思う。 昏く陰鬱な、つい先ごろ迄の我が家では、お父様はこの感情さえ顔に出す事は、出来なかったんだもの。 あぁ…… 神様。 感謝申し上げます。 この倖せを齎して下さった事に。 この倖せを導いて下さった『あの方』に感謝を。 お母様を救って下さった事に、我が家に幸運の灯を与えて下さった事に、感謝を奉じ奉ります。


 真摯な祈りを、道端で捧げる。 心の底からの衝動でもあった。


 ふと、風が駆け抜け……


 私の頭を誰かが撫でて行ったの……





           ――― § ――― § ―――





 誰が編んだか判らない、お母様への呪いは【解呪】され、体力も戻った事も有り、お母様は社交へと復帰されたの。 と云っても、同じ街区に居住している ” 法衣 ” と名の付くお家の方々との茶会なのだけれども。


 それでも、今まで何も出来なかった時と比べて、天と地ほどの差が出来るのは間違いない。 特に、王城に出仕する ” 法衣 ” の名を冠する貴族の方々にとって、情報は何より価値があるのよ。 お母様は聞き上手な事も有り、様々なお家の奥方様の愚痴を聴きつつ、王城内の事柄について『お話』を引き出されて行くのよ。


 その手管はとても真似できないわ。 


 病み上がりと云う事で、私も二、三度、同行したのだけれど、その茶会でのお母様に圧倒されっぱなしだったのよ。 水を得た魚というか、天空を駆け抜けるヒポグリフと云うか…… 縦横無尽に御話を振り、茶会出席者の奥様方の意識をそれと判らぬ様に誘導し、此方の欲しい情報を引き抜いて行くの。


 途中から、何も言えなくなって、座ったまま『お人形』の様に、お母様の『会話術』に引き込まれていたのよ。


 御邸に帰ってから、どのようにして、あの技術を手に入れたのかをお聞きしたの。




「お父様に、手解きを受けたのよ。 だから、私の話術は『諜報官』の直伝と云う訳ね。 …………ケイティの同行も、もう必要は無いわね。 体調も戻った事だし、貴女は貴女の為すべきを成しなさい。 しっかりと、貴族学習院で知識と人脈を得るのよ」


「はい…… お母様」


「あぁ、それでね、ちょっと『お話』を、して置かなくてはならない事があるの」


「はい…… 何でしょうか?」


「あの『善き修道女』様の事」


「ええ、なんでも!」


「そうね、事実は奇妙だけど、知らないといけないと思うの。 貴女が貴族学習院の生徒だからと云う意味だけでは無く、これからの事も合わせて考えて欲しいの」




 お母様の口から語られる事実は、驚愕に値するモノだったわ。 そう、あの…… 崇高な修道女であらせられる方が、貴族学習院にて御一緒しているのだと云う事実。 その様な方をわたしは知らない。 一体、何が……


 我が家の寄り親となった、フェルデン侯爵家。 その別邸に小聖堂があり、その『守り人』として、あの方は派遣されていたの。 そして、フェルデン侯爵様のたっての希望で、彼の家の『養育子(はぐくみ)』として、フェルデンの名を名乗る事を許されていると云うのよ。


 えっ? それは…… もしかして…… あの煌びやかな集団の中で、チラリと語られた、『教会の犬』の御話?



「不快ですね、その様な形容(・・)を、されておられるのですか、貴顕の方々は」


「ええ、まぁ…… 登院されては居られるのですが、その御姿をサロンで見る事はありません。 学習院内の小聖堂とか、文書館とかでお過ごしに成られている…… らしいですのよ。 それに、ご交流も庶民や爵位がほぼ無き者達ととしか……」


「良く眼を見開き、耳を(そばだ)てなさい。 貴顕の方々からすれば、さして重要とは思っておられないとは思いますが、あの方…… エルディ侯爵令嬢様が、ご交流を重ねられていらっしゃるのは、王都の市井では隠然とした御力をお持ちの家の方々よ。 茶会でも度々話題に上る様な方々。 貴顕の方々の思惑は別として、事実をしっかりと見極めねば、足を掬われますよ」


「お母様は、既に…… はい…… 精進いたします。 で、では! わたくしは、あの方と学習院内で御話いたしましても?」


「良いのではないでしょうか。 ただし、気を付けなさい。 貴顕の方々の目に止まれば、どんな目に会うかは、貴女自身が良く知って居る筈」


「……はい。 拙速な行動は差し控えます。 徐々に、徐々に…… ですわね」


「はい、良くできました。 貴女もファンデンバーグ法衣子爵家の娘です。 ならば、考える事は出来る筈です。 どの様なアプローチをするかは、貴女に任せます。 ただ、気を御付けなさい。 あの方の立場はとても危ういのです。 お役に立てる事があれば、進んで行動するもよし…… 陰ながら応援するもよし。 それは、貴女次第なのですよ」


「心に留めておきます、お母様」


「嬉しいわ、貴女が聡明で」




 にこやかに、お茶を飲み、私にそう語って下さったのよ。 私も知らない内に、危険なほど偏った見方をしていたと云う事ね。 何が…… 一体、私にそうさせたのか。 貴顕の言動は影響力を持つのは、理解している。 でも、ファンデンバーグ法衣子爵家の娘ならば、そこに違和感を持ってもおかしくは無かった筈。


 なのに、なぜ……


『貧すれば鈍する』を、私が辿ったの? この眼鏡が無かったら、これまで通りの私だったら…… 相手の事を良く見もせず、只の噂話を集めて考えて考察して…… 其処に悪意があると判らぬまま…… 事実とは違う人物像を思い描いて……


 ダメだ…… 此れでは、ダメだ。 私は、もっと、『人』を見なくては、ダメなのだ。


 貴族女性としての、武器を磨かねば成らないのだと、その時、強く思ったの。




                 ―――――




 貴族学習院での毎日は、今までとは違って行ったの。 今までは、どうやってファンデンバーグ法衣子爵家を救うか…… 如何にして、お母様を治癒するかで…… 一杯一杯だった。 でも、全ては根底から変わったの。 別に寄り親様や貴顕の御子息御令嬢方に尻尾(・・)を振る様な真似をしなくても良くなった。


 静かに勉学に勤しみ、自身に知識と知恵を付けることに専念も出来た。


 この特別な眼鏡のお陰か、柔らかくなった私の印象に、それまで誰とも『お話』出来ずにいたのが嘘のように、色々な茶会に出席を打診される事も増えて行ったの。 ええ、それはとても善き事。 貴族の令嬢としての役割を十全に熟せると云った意味で。


 ご招待されたお茶会には、積極的に出席し、その場の御話を笑顔と共にお聞きしていた。 様々な話題が茶席に乗せられ、そして、『噂』は拡散していく。 多くの事柄は、身嗜みや、流行りの歌劇の御話が多い。 でも、それも又、重要な事柄でもあるわ。 同世代の方々が何に興味を持ち、どのような嗜好を持っていらっしゃるのかが、良く判ったのだもの。


 集まりの中で、特に気を付けていたのが、言外の言葉。 『掌 会 話(ヴォイレスサイン)』と、『仕草会話(ムヴェトク)』の習得は、何よりも大切。 教授して下さる指導官様は、王宮を退官された、元後宮女官様。 ちょっとした仕草や、僅かに動かす扇の角度によって、あれ程の情報が詰め込まれているとは、思いもしなかった。


 お母様は故あって、そちらの技術は知ってはいても、ご自身ではあまりなさらない。 『二心あるべきでは無い』と、どなたかに強く教育されて居たらしいの。 だから、ご自身では相槌くらいしか発せられない。 でも、読む事は出来るのよ。 読み方は…… お母様に教えて貰ったわ。 でも、いざ自分で言外の言葉を操るとなると……


 それは、それは、大変な事なの。


 ええ、ちょっとした扇の角度で、表す事柄が正反対になってしまったり…… 熱心に学ぶ内に、貴族夫人の方々が、どうやってこれを習得されたのか、不思議に思ってしまうわ。 でも、修得せずに済ますと…… とても、社交界で泳ぐ事は出来ないと思うの。 声なき声は、大切な事柄を普段の会話に混ぜて話すには最適。 騒がしい舞踏会では、様々な情報がその手段によって交換されて行くのよ。


 そして、下級貴族であっても、その手段を知ってさえいれば、上位の方々の御宸襟が手に取る様に理解できるの。 そして、他家よりも早く対処に走れる。 それは、下級貴族が生き残るためには、必須の技術だと思う。


 ややもすると、元後宮女官の指導教官様に溜息を洩らされようとも、歯を食いしばって学んでいく事にしたの。




            ――― § ―――




 へとへとに成って…… 学習院から御邸に帰る。 専用の馬車など、用意する事の出来ない、下級貴族家は、街区に共同で厩と馬車を用意している。 学習院に登、降院する場合に乗り合わせて行くのが常。 さもないと、歩いて行くことに成る。


 私は…… 乗れなかった。 


 でも、今は違う。 お誘いも有り、共同で使用できる馬車も、一緒に乗る事が出来るようになったの! 倖が降り注いだ我が家。 その幸せにあやかろうと、他家の方々も誘って下さるようになったの。 没落寸前の我が家が、宰相府に出仕する事になって…… 街区の皆様の態度が一変したと云ってもいい。


 そう、それが貴族と云うモノなんだもの。


 『態度の違いに、怒りを露にするのは、矜持無き者のする事』、と…… お母様は仰った。 色々と腹に据えかねる言動を行った方々も居る。 でも、そんな方々も又、何か一つ歯車が狂えば、ファンデンバーグ法衣子爵家と同様に成ると……


 そう思えば、腹を立てる必要も無くなった。


 手を差し伸べるのは、自身が本当に友誼を結んだ相手だけでいいのだもの。 そうなったとき…… 我が家に手を差し伸べた貴族家は居なかった。 つまり…… 我が家の者と真に友誼を結んだ者は居なかったと云うだけの事。


寄り親(リッチェル卿)』の怒りを買ったのが、全ての元凶。 そして、その原因を作ったのは私。


 だから、甘んじてこの状況を受け入れるの。 ただ、真に友誼を結びたいのは御一人だけ。 あの方だけ。 でも、早急に事を運んではいけない。 その上、あの方は、あの日から未だ登院されてもいない。 『噂話』ばかり先行して、私の耳に入って来る。 私の中で、焦燥感が募る。 


 御邸に帰ったら、執事が待っていた。 お爺ちゃんな人。 バルド。 長い間、ファンデンバーグ法衣子爵家に仕えてくれていた人。 没落しつつあるとき、どうしても給金が払えなくなり、泣く泣く解雇を言い渡した方。 お父様も、お母様も、とても憔悴されていたわ。


 でも、我が家は持ち直した…… 使用人を幾人か募集した時、真っ先に帰って来て下さった。




「お嬢様、お帰りなさいませ」


「バルト、ただいま。 お母様の御様子は?」


「ご機嫌宜しく、執務室に居られます」


「そう、ご挨拶してくるわ」


「あぁ、お嬢様。 法衣子爵家と、お嬢様宛てに、お手紙が届いて御座います。 『親書』では御座いませんでしたので、一存にて 奥様にお渡ししております」


「そう、なんでしょうね。 判ったわ。 お尋ねしてみる」




 帰って来てくれたバルドを筆頭に、我が家のかつての使用人は殆どが戻ったの。 なけなしの資産から退職金を捻出して紹介状もお渡ししたから、こうやって募集を掛けた時に、真っ先に手を挙げて下さるのよ。 きっと、信じて待っていて呉れたのね。


 ファンデンバーグ法衣子爵家のやり方は、間違っていなかったと云う事ね。


 気分がよくなり、軽やかにお母様の執務室の扉をノックする。 帰還のご挨拶をする為にね。 でも…… 気になるわ。 私宛のお手紙なんて…… ご招待状なら、バルドはそう云う筈。 お茶会でも、昼餐会でも無いとすると…… 個人的な事なのかな?




「お入りなさい」


「はい、ありがとう御座います。 只今、帰りました、お母様」


「お帰り、ケイティ。 あのね、ちょっとお話があるの。 貴女…… フェルデン侯爵家の姫様と面識が有るの?」


「えっ? まっ、まぁ…… あの煌びやかな集団の中に居られましたから…… 挨拶くらいは…… でも、最近は、御兄弟揃って御姿を見ておりませんわ」


「……そう。 この『お手紙』は、貴女と会いたいと、そう リリア = マリー = フェス = フェルデン侯爵令嬢様よりのお手紙でした。 当家に許可を求めるとも綴っておられます。 公式の打診です。 茶会でも昼餐会でもありません。 貴女一人と御話がしたいとの思召しです。 ……なにか心当たりでも?」


「い、いいえ、滅相も無い。 御顔は存じ上げては居りますが、私から話しかける様な不作法は致しておりませんし…… 理由は判りません」


「そうですか。 何にしても、侯爵令嬢様からの御依頼です。 無下には出来ませんね。 当家宛ての手紙は開封致しましたが、貴女宛てのモノは開封してません。 此れです」


「はい……」




 恭しく受け取る。 とても良い匂いがする。 侯爵家の令嬢ともなるとお手回りのモノも最高級品だなと、場違いな感想が浮かび上がる。 お母様の執務机の隣に座らせて貰い、お手紙を開封する。 封蝋に侯爵家の紋章が刻まれているのよ…… 


 正式なお手紙…… 法衣子爵家の娘が戴くには、余りにも高貴な方からのお手紙。 ちょっと手が震えてた。 お手紙を開封し、美しい透かしの入っている便箋に、優雅で美しい文字が綴られていた。


 美しい文言が並び、貴族的言い回しが完璧とも云えるお手紙。 私よりも年少の方なのに、私よりも『修辞学』を、良く学ばれているわ。 流れる様な文言を要約すると……



 ” 会ってお話がしたい。 ついては、学習院のサロンで待っている。 同封した入室許可証を見せれば、問題無くサロンに入れる。 時間については、追って連絡をするので、待っていて欲しい ”



 だったの。


『 会ってお話 』 と、云う事は、顔を突き合わせての、会合と云う事。 同席者について綴られていないのも、奇妙といえば奇妙。 それに、ファンデンバーグ法衣子爵家宛てのお手紙には、二人っきりとそう明言してあるようなの。


 何故? 侯爵家…… それも、『寄り親』である家の御令嬢が、これ程格式をもったお手紙で、正式にお呼出しをする理由は? 学習院内に於いて、貴顕なる方々ならば、有無を言わせず呼び出す事だって可能よ? 事実、第一王子殿下などは、リッチェル侯爵令嬢に非礼を働いたと、下級の貴族子女をサロンに問答無用に呼出し、叱責されたとかなんとか……



 叱責? なのかな…… ご機嫌を損ねる事をしたかしら?



 考えても…… 交流さえ持っていない、高貴な方だもの…… 理由が思いつかない。 そして、思う。 なにか裏が有ると。 香しき権謀術策の香…… とも云えるのかしら。 でも、それにしては、余りにも明け透けなお手紙の内容。 何かの罠ならば、もっと…… こう…… 



「お母様、少々 『噂話』を拾ってみたく存じます。 もし宜しければ、お母様の方でも……」


「宜しくてよ。 旦那様にもご相談いたしましょう。 ……ケイティ、大丈夫?」


「…………はい。 わたくしは、もう以前のわたくしではありません。 ファンデンバーグ法衣子爵家の娘としての自覚を持ちました。 例え、高貴なる方とは言え、無茶な御命令には従えません。 それが、『寄り親』の家人であっても」


「よろしい。 ならば、その気概を持って事に当たりなさい。 これは…… 多分…… 貴女への試金石(・・・)と成るでしょう。 存分に、貴女の才覚を示す時ですよ」


「怖いですけれど…… 努力いたします。 家名に恥じぬ様に」




 相手は寄り親…… フェルデン侯爵家のお嬢様。 遥か雲上人。 私にとっては、日常の外側に居る人。 脳裏に浮かぶのは、幼いながらも侯爵家の矜持を持った、美しい姫様だった。 何時も控えめに、フェルデン侯爵家の御継嗣様の後ろに立っておられた。


 何か……


 わたしが未だ知り得ない、何かが進行している。 その進行は未だ細い流れのようだけれど…… 高位の方が動かれるのだから…… いずれ、大きな流れに繋がる様な気がする。 今は、情報を収集すべき時。 何よりも、直接御相手する時までも、周辺情報を確認しておかないと、流されてしまう。


 考察するには、情報が足りなさ過ぎる。 私も努力する。 お母様にも手伝ってもらう。 様々な情報を網羅し、その上で考察する。 深く、深く…… 何が進行しているのかを、見つける為に。


 お母様と視線を合わす。



         ―― しっかりと。 ――




 私の視線に貴族の矜持が乗る。 ええ、私はファンデンバーグ法衣子爵家の娘。 




  ―――― グレイス = ケイトリッチ = デル = ファンデンバーグ




 失いかけていた、誇りを取り戻せたのは、あの方のお陰。 幾ら感謝をしてもし足りない程。 ファンデンバーグ法衣子爵家を、お母様を、そして…… ()を救って下さった方。 決して、対価をお求めに成らなかった、聖なる修道女エル様。


 ならば、祈ります。


 貴女が欲したのは…… 祈りでしたね。



 矜持と誇りを取り戻せた、この幸運を……






 ―――― 神様と精霊様方に、感謝の祈りを捧げ奉ります。 ――――







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― 新着の感想 ―
教会にいた「あの方」が。 『掌会話』、『仕草会話』を十全に使いこなすと知ったら目を離せなくなるんじゃないかな? そして、令嬢たちがやらかした事を知ってしまった日には………
[良い点] 良き良き。
[良い点]  エルの足跡・事跡から人と人の繋がりが結ばれてゆく、その端緒になるのだろうか?
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