閑話 侯爵令嬢の『疑問』と『矜持』。
――――― 秋の日。
優し気であり、そして、冬の到来を予感させる感傷的な風が貴族学習院の大食堂に吹き抜けていく。 騒めきも、穏やかな海の潮騒の様に、緩やかに寄せては引いて…… 高貴なる者達の日常が其処には、確かにあった。
時間は、日が中天に懸かる頃。
貴族学習院に在籍する多くの者達の楽しみの時間。 王家に連なる若者も大多数の者達と同じく、その周囲を固める者達と共に、大食堂に足を運ぶ。 高貴なる家系に連なるものらしく、大食堂の大階段を上る華麗で煌びやかな集団。 彼等の為に特別に用意された場所へと足を運んでいた。
中央には、第一王子。 その隣には豪華な金髪と紺碧の瞳を持つ、一際豪華なドレスを纏った女性。 周囲にも、権威を示す略礼装の青年貴族と、爵位に応じた煌びやかなドレスを纏う淑女が付き従っていた。
第一王子殿下の明朗で闊達な御声は、自然と大食堂の開かれた空間に広がり、そこに笑い声や称賛の声が重なる事を、大食堂を利用する者達は耳を聳だてる。 少しでも、第一王子の『お話』が伺えたならば、それは、大変栄誉な事でもあるからだった。
” 今日も殿下はご機嫌の様だ。 善き哉、善き哉 ”
大食堂の大広間を利用する、中位から下位の貴族家の子息、令嬢達も安堵を覚える。 王族である、第一王子が機嫌よくお過ごしに成られているのが。 貴族学習院にとっても、そして、この学習院で貴族たるべく研鑽している者達にとっても、貴族学習院と云う場所が、『平穏で心安らぐ場所』である事の『証左』である事に繋がるのだから。
たとえ、そこに、ちょっとした『変化』が有ったとしても、殿下を取り巻く者達の中で、重要な位置を占める人物が居なかったとしても、神官服に身を包む者が居なかったとしても、孤児であった経歴を持つ庶民の執事が居なかったとしても…… 第一王子殿下の御機嫌が損なわれないのならば、それは大した事が無いのだと……
そう、納得するしか下位の貴族子息令嬢には、ないのだから……
第一王子殿下の御宸襟が安らかならば、それは良い事なのだから……
良く通る、美麗な第一王子殿下の声と、令嬢達の笑い声、令息達の言葉の数々がやがてピタリと止まる。 『王家の方』の為の小部屋に、お入りに成ったのだろうと、大広間の者達は想像する。 見た事も無い場所ながら、良く噂の俎上にのる『高貴なる方々の専用のサロン』。
その中で語られるのは、この国の未来への指針か……
それとも 第一王子殿下の英邁な御考えなのだろうか。
その場に身を置く事は出来ないが、せめて『お話』だけでも伺いたいものだと、大広間の者達は希求する。 サロンの中に入れる者は、限られた者達のみ。 そう、第一王子殿下が招待された方々のみなのだ。 名を知って貰う事も、顔を覚えて貰う事も、まして知己を得る事も出来ぬ、中位、下位の貴族の子息令嬢は、ただ、ただ、溜息と共に、彼等が消えた貴賓室の扉に視線を向けるばかり……。
貴族学習院を支配する、煌びやかな集団は、学院のほぼ全ての者達の『憧れ』であり、『敬愛』を捧ぐ貴顕であり、同時期に同じ貴族学習院で学べた事を生涯にわたって自慢できる様な……
――― そんな方々を身近で感じられる事に至高の喜びを感じていた。
―――――
大食堂のホールの周辺に配されている、大小様々な部屋が付随していた。 全ての部屋の扉は、魔法術式により、固く閉じられ中の様子は伺い知れない場所。 隔離されて独立した部屋といっても良い程の厳重に警備されている場所でもあった。
―――― このキンバレー王国には、厳格な身分制度が存在する。
各部屋は、十分な広さと重厚で瀟洒な調度が整っており、高位貴族の者達が自身の連枝や同門の者達と情報を交換する『サロン』に相応しい場所と云っても良い。
高位貴族、特にキンバレー王国に於いて、八大侯爵家と呼ばれる、八家しか存在しない侯爵家に対し、貴族学習院が用意した ” 特別室 ” は、幾つも有る部屋の中でも、その設えも警備も、念には念をいれて準備されている。
他の部屋に関しても、若年の下位貴族や、『特別の許可』の下 登院を許された貴族籍を持たぬ者には、使用するのには敷居が頗る高い。 煩雑な請願や、『使用許可』を得る事、その上、『特別な目的』も無しに部屋を使用する事が出来ない等、不文律も多く有り、社会的下位の階層に身を置く ” 数多くの者達 ” にとっては、その部屋に入る事もまた『憧れ』の一つでもあった。
” せめて、学習院を去るまでには、一度は入室してみたい ” と…… 多くも者達は心の中で願っても居る。
――― そんな、特別な場所の一つ。 侯爵家に用意されている特別室の一室。
硬く閉じられた扉の向こうにフェルデン侯爵家の令嬢、リリア = マリー = フェス = フェルデン侯爵令嬢はただ一人 豪華な椅子に座し、細長い窓から見える貴族学習院の美しい中庭に咲き誇る花々を、物憂げに見詰めていた。
彼女が望んだのか、本来ならば特別室の中に侍る、貴族学習院の侍女達の姿も無い。 本来ならば、彼女の周囲に侍るべき者達もまた、大広間の大テーブルに付き、若き中位、下位の令息令嬢と昼食を共にしていた。 そうするようにと、フェルデン侯爵令嬢の意思でもあった。
兎に角、一人になりたかったのだ。 考える事が、余りにも多いためだった。
彼女は、ここしばらく、大きく心を悩まして居た。
その第一は、敬愛する、兄 ヴィルヘルム = エサイアス = ドゥ = フェルデン 従伯爵が、もう王都では見る事が出来ない事。
先日行われた、フェルデン侯爵家の晩餐会で、ホストを務めた兄が、父フェルデン侯爵の ” 勘気 ” を、賜ってしまった事。 父の思案により、エサイアス兄様が、フェルデンがご領地での研鑽を命ぜられたのにも、大層驚いた。
あれ程、父自身が期待していた嫡男に対しての処罰としては、相当に重い処分。 継嗣としてでは無く、フェルデンの血を引く一人の『男』として、鍛えて貰うとの思召しが、同時に言い渡されていた。
―――― 父の確固たる意志と、決断に心を寒くした。
その決定が下された その夜。 夫人である母と共に、父フェルデン侯爵の宰相としての判断と決断の意図を伝えられた事が、彼女に大きな悩みを植え付けたのだ。 当人には決して伝えられぬ事実を、自身に伝えたのは、如何なる意図があったのか。 母と共に父の話を聴くに至り、その理由を垣間見る事になった。
理由は、自身の研鑽の為。 いずれ…… 他家に嫁し、その家の女主人に成る事が予定されて居る ” 侯爵令嬢 ” としての責務として、社交の場に身を置き、以て状況判断の研鑽を積む。 更には、場の支配を確立し、社交界に於いて王国が有るべき道を歩めるように、貴族家の奥向きに対し影響力を発揮する。
これはもう、試練とも云える。 貴族の令嬢が日常に於いて、日々研鑽を積み、常に試されると云う事でもあった。 だから…… 父は彼女に対し、厳重に秘匿される情報をも解禁したのだ。
その情報とは、フェルデン侯爵家の『養育子』となった一人の女性。 年長の従姉である、『エルディ=フェルデン』の存在。 今まで侯爵家で大切に育てられて来た彼女にとって、理解しがたい存在となった。 男爵家の娘にして、その籍を失い教会孤児院に身を置いていた少女。
貴族の常識からかけ離れた行動をとりつつも、微塵も自身を卑下するような雰囲気の無い人物。 まるで、疎外されている事すら、予定した事だと云う様な、孤高を護りつつも事も無げに日常を送る従姉。 学習院に於いて、遠目に見る事しかしていなかったが、そんな彼女は凛として、崇高であり、何よりも近寄り難く感じてしまう。
学院の小聖堂で、神様と精霊様方に祈る御姿を、ちらちらと見ている下位の貴族達の言葉が脳裏に木霊する。 影響力を持たぬ侯爵令嬢が神に救いを求めているのだと、そんな嘲笑と云うべき噂を孕みつつ、彼女達の目には、そうやって蔑まないと、自分が保てない意識が垣間見える。 後ろ暗い感情を持つ者にとって、従姉の『祈る姿』は光に溢れ、それだけで……
―――気後れがしてしまう。
自分を形作る、貴族としての今までの常識や規範が、足元から崩壊して行くような、そんな不安感に胸が締め付けられるように苦しくも有った。 その原因が何か。 貴族としては異常とも思える振る舞いをする 『従姉』 に対し、自身が何故『気後れ』などを感じてしまうのか。
突然、従姉が貴族学習院に登院しなくなってからは、更にその思いは深まる。
フェルデン侯爵令嬢である、リリア = マリー = フェス = フェルデンは、自身の身に起こっている『これらの事柄』に対し、『考察』を深めねば成らなくなったのだ。
貴族学習院に登院しながら、深く、深く、自身の事、敬愛する兄の事、そして、素晴らしく、尊敬の対象であった綺羅星の如き第一王子等の集団の事を考えていたのであった。 『その考察』の根源に有ったのは、『 疑問 』。
何故、王都の貴族社会の一員と成る為の準備期間である、『貴族学習院』の在籍期間を切り上げて迄、敬愛する兄が西方辺境域にあるフェルデン領に赴き、彼の地に於いて統治を学ばなければならなかったのか。 そこに侯爵家であり宰相家である『フェルデンの意思』が、深くかかわっていたとしても、それが何かが未だ理解出来ずにもいた。
さらに言えば、本来ならば、敬愛する兄 エサイアス従伯爵…… に伝えて然るべき、『あの従姉』の事を父フェルデン侯爵は、敢えて何も伝えていないと云う事実。 たとえ、それが、情報収集能力の獲得の為とは母から説明を受けていたとしても、” あんまりではないのか ” と、云う思いすら抱いている。
更に母である侯爵夫人は、愛娘である自身についても言及した。 情報の取捨選択、そして、何よりも状況の判断を自分自身で行えと。 そして、その判断は、全て父母が見詰めていると。 侯爵家の令嬢として、今まで学んだことを十全に生かし、その資質を磨く事を期待すると。
今までは、敬愛する兄のいう事を聴けばよかった。 優しく自身を導き、難しい判断には指針を、示してくれていた。 なにより、難しい判断を迫る様な事すらさせなかった。 つまり、自分は…… 過剰に護られて居たと云う事実を、『理解』してしまった。
―――― 突然、荒野に放り出されたような…… そんな気分にもなる。
それが故に、彼女は『思考』した。
フェルデン侯爵家の娘として、大切に大切に育てられてきたとはいえ、
女性家庭教師達からも、彼女自身の能力は高く評価されていた彼女は、今は考える時だとして、周囲に侍る者達を遠ざけた。 フェルデン本邸に於いても、これまで近くに侍っていた専属侍女や専属執事が父の命により、生家に戻され、今は新たな者達の選定中の為、邸の侍女やメイド達が身の回りの世話をしてくれて云る。
それまでの様に、何かにつけて ” お友達感覚 ” の者達に変わり、職業倫理と矜持を併せ持つ、本邸の者達は無駄口を一切叩かず、彼女を支えてくれているのは、肌感覚で理解していた。 息苦しさと、疎外感と、何よりも甘やかな空気と云うモノが抜け落ち、侯爵令嬢として本来あるべき姿に立ち戻っているとも…… 云えた。
特段、口に出さずとも、全てはあるべき姿に調えられて行く。 邸の使用人は仕える貴人の思考を邪魔する事など無い。 必要な事を終えれば、潮が引く様に、視界から消える。 呼び出しの鈴をならせば、間髪入れず姿を顕わすのだ。 予定を訊けば、当日の予定から、五日先までを滔々と遅滞なく述べ、その際に着用すべきドレスの選定は既に終えられており、自身がそれに『否』を唱えるまでは、予定通りに進む。
自身のすべき事は、『考える事』。 他所からの余計な『感情』などは交えず、自身の考えを纏め上げる為に、自身が手にした情報を細かく分析し、組上げ…… 決断する事。
今までは、何か質問しても、返答が帰って来るまでに時間が必要だった事を考えると、今まで側についていた者達が如何に未熟であったかを痛感させられているのだ。 彼等、彼女等は、連枝一門の三男以降、三女以降の者達。 自身が実家に帰れば傅かれる立場の人間。 だからこその甘さだったのかもしれない。 彼等も又、見極めの最中であったのだと…… そう、理解した。 そして、彼等に『落第』の烙印を押させたのは自分自身で有った事を痛感していた。
そうなる前に、それを指摘できなかった自分に、情けなさを覚える。
自分が気を付けていれば、その未熟さを指摘できていれば、その者達の未来に『暗闇』を置く事は無かったのにと…… 彼等はフェルデン侯爵家の奥向きには不適との烙印を押されてしまった為、もう二度と高家の使用人への道は無くなった。 生家で徒食するか、下位の者達への政略結婚の駒に成るか、個人の才覚によって『キンバレー王国民』として、生きていくしかなくなったのだ。
上に立つ者には義務と責任が有るのだと、女性家庭教師があれ程、教えを垂れていたのにも関わらずに。 後悔の念が彼女の胸を締め付ける。
そして、今更ながらに女性家庭教師達が『 教え 』を反芻するように、脳裏に浮かび上がらせていたのだった。
――――
そもそもの話、不可思議と云えるような事象は、ここ貴族学習院には散見されていた。 学習院初年度の初登院時に、違和感を覚えてはいたのだが、敬愛する兄がそれを良しとしている上、妹でもある自身に対し、同じように行動を共にする様に教導していた。 それに反駁するような娘ではない。 素直に、兄の言葉に頷き、自身の違和感を胸の奥底に封じた。
兄は云った。 第一王子殿下は古き貴族の因習にとらわれ続けているキンバレー王国の貴族社会に大いに危機感を持っておられると話していた。 因習を排除しなくては、王国に未来は無いとの、思召しであったと聴く。 深く第一王子殿下を敬愛する兄様は、それ故、その御宸襟に疑問すら持っていなかった。 そして、その理念を自分に押し付けた。 兄様 曰く、殿下の御宸襟に有るご懸念は……
―― 才有る者が尊き血の愚か者によって、その栄達を阻害されている。
―― 貧しき者が、富む者によって、押さえつけられている。
―― 病に苦しむ者が、その癒しを得る事が出来ずに居る。
―― 王国の国力が、事、王領内に於いて凋落傾向にある。
―― 王領内に於いて魔物が跋扈し、国民の安寧を脅かしている。
―― 王領内の不作が顕在化しつつ、妖精様方の力が凋落している。
―― 何より、尊き聖女を蔑ろにした者達が存在している。
自身が貴族学習院で学び始めた頃には、第一王子殿下は、そう御考えに成っていたとの事。 そして、自身の周辺に貴族籍を持たぬ者を含め、中位、下位貴族の才有る者達を置く事に、なんの戸惑いも持たれて居なかった事。 更に言えば、『不逞の輩』と、教会関係者を緩やかに排除し、教会の権威を認めていない…… と、柔らかくだが、そう明言していた事。
『信仰とは自由なもので、自身の心の在り方である』
その御言葉は、納得の出来る者が多数であり、賛同する者が側に控える様になった。 例え教会に所属しているモノであっても、その事を体現できる者ならば、認める事も吝かでは無いとの思召しを示された事が、殿下の御宸襟を伺う上で決定的な出来事でもあった。
此処、貴族学習院では、王侯貴族と聖堂教会の間にある、昏く深い『 溝 』は、第一王子殿下の御言葉により、『更に大きく深く穿たれていた』 と、云う事実に突き当たる。
―――― 考察は続く。
殿下の御宸襟を推察する事は、不敬でもある。 しかし、これまで連綿と続く王国の歴史を鑑みれば、殿下の御考えの方が『異常』とも言えた。 王国の国権は国王陛下の元、王侯貴族が掌握する。 それに対し、聖堂教会は人々の心の拠り所として存在していた。 封建制貴族支配と云う、この国の国体に於いて、どうしても下々の者達には不便を強いる事も有る。
重税にしても、富の不均衡にしても、己が才覚を十全に生かせぬ事に関しても……
この国が、国王陛下を戴く『王国』で有り続けるならば、それは必然的に発生するものであり、その弊害を如何に軽くするのかが、王国貴族たる我等が『使命』であると云える。 ならば、第一王子殿下の御宸襟は? 旧来の慣習にこそ、その悲惨な情景の根本を見出されたのか? 二律背反に関して言えば、その通りかもしれない。
しかし、仕方のない事は、仕方のない事。 公の利便性、収益性、王国の全体の隆盛を鑑みれば、街道の整備、運河の開削、魔導通信線の敷設など、大金が必要と成る事業は必須。 その為の財源と成るは、王国国民の不断の努力であり、ありていに言えば『税』なのだ。 重税、重税と云っても、何の為の税なのかを知れば、王侯に連なる者ならば、口を閉ざさるを得ない。
その為に『苛烈な判断』も要求される。
『使命』を蔑ろにしたモノ達、私腹を肥やし、贅に溺れるのならば、その者を粛清しなくては、王侯たる資格すら無いのだから。
しかし…… 国全体で税を軽減し、歳入を絞れば、必要な事業にも出資出来なくなる。 王国を支える為には、基本的な支出は避けられない。 緊縮したとしても、耐えられるのか? 自身としては、無茶だと思う。
” 殿下の崇高な御考えは理解できます。 が、殿下の御考えでは、殿下の装いを含め、王国の体面は保てない。 そして、諸外国からの侮りを受け、国は衰退の道を歩み…… 昏き闇が王国の行く先に置かれます ”
そんな事は、十分承知の上での御考えで有る筈。 現象の検分調査と、その原因に因果関係が有るのも理解できる。 しかし、余りにも性急に事を運ばれている。 旧来からの慣習とは、それが機能した時があるのだ。 ……いや、今現在も機能しているからこそ、その慣習は捨てられていない。
問題が顕在化したのは、何故か。
其処には…… 問題の深化を押し留める『勢力』の凋落があったから。 そう考えて然るべき。 聖堂教会の在り方については、昔から王侯貴族内に於いて問題視する事柄があった。 そう、組織的腐敗。 内部に籠る性質がある聖堂教会に於いて、深き闇を宿す事は必然とも云える。
どのような『崇高な理念』を持ち、『信仰に生きる』尊き者達であったとしても、所詮は『 人 』 なのである。 聖堂教会に帰依し、『神籍』を戴く様になっても、すべてのモノが ただ 『祈り』を以て生きる事は無い。 出自が貴族家の者が、その食い扶持を求めて教会の門を叩くことさえあるのだ。
殿下が口にされた『不逞の輩』…… 貴族女性を食い物にして平然としている様な高位神官も…… 元をただせば、同じ貴族の出自を持つ者が多かった。 すこし、探りを入れるだけで…… 貴族派と呼ばれていた、邪な心を持った枢機卿達が、如何な『家』の生まれで、どのような『階層』に属していたかを知れば……
” ……その御宸襟を、口にされる事に戸惑いを覚えられたに違いないのに ”
考察する事。 情報を広く集める事。 何よりも、公平公正な目で事象を見詰め、最善を探る事が、上に立つ人物には求められるのだ。 幼い頃からの『教育』の賜物か、リリア = マリー = フェス = フェルデン侯爵令嬢は、その手の思考方法に一日の長が有る。
有る事象に、突き当たった。 第一王子殿下に忠誠を捧げる兄は、殿下の御考えを現実に落とし込む施策を考える立場。
その立場であった兄が、辺境へと向かった理由は、『辺境の地の統治に関しての問題解決が為』との理由書が貴族学習院に父フェルデン侯爵の書状が送付された。 その事実を殿下は貴族学習院の教諭陣から知らされた。 つまり、殿下は実務的な能力を発揮する側近を父により捥ぎ取られたと云う事。 そして、それを理解する事無く、” それは大変だな ” と、あっさりとお認めに成った。
つまりは…… 軽く扱われていたとの証左。 兄の言葉は殿下に届かず、殿下の御宸襟の現実化に汲々としていた兄様……
―――― 殿下に心酔する、兄様。
何というか、感情の持って行く場所に困ったほど。 その兄が辺境の地に旅立ってから、兄に付き従い、行動を共にしていた自身も又、第一王子殿下の集団からも抜け落ちた。 その事に、あの集団の方々は、誰一人気が付いても居ない。 自分の存在が、まるで兄の影でも有った様な…… 兄様が消えれば…… 納得できる理由があれば…… その後の事に関しては斟酌する事も無く、気に病む事も無い。 それが、第一王子殿下の ” 為人 ” と、云うモノ。
” 成程。 そういう事なのね。 朋と呼んで頂けた事は、兄にとって誉れある事だとしても、貴顕たる方にとっては、使い勝手の良い『駒』の一つでしか無かった。 問題が有れば、何時でも容易く切り離してしまえるほどの関係性。 国王陛下と、お父様の関係性には程遠いと云う訳ね。 陛下も、お父様も、それをご存知だったと。 故に、『離れて現実を見よ』との思召しだったと…… ”
父が何故、兄を辺境の地で研鑽を積ませるか、此処に来て第一王子殿下から物理的に距離を離したのか…… 理解に至る。 心酔は何にも増して、避けなければならない。 『盲目の敬愛』など、宰相家の継嗣にあって、持つべきでは無い感情。
その後、実質的 頭脳を失った第一王子殿下の周辺は…… 大層、観念的、感情的な御言葉が多くなっていった。 現実から乖離した、理想を語る言葉の数々が漏れ聞こえてくるばかり…… 崇高で清冽な理念は結構。 若き青年貴族として、その潔癖さは必要なモノであり、長ずるにあたり、徐々に世俗の垢に塗れ、現実に穢されて行くのだから。
貴族女性として教育をしっかりと受けている マリー=フェルデン侯爵令嬢は、その事もまた理解している。 だから、現在の第一王子殿下とその周囲に侍る者達に深い憂慮を持ってしまうに至る。 至高の存在であらせられる殿下は、その事にもっと留意すべきで、徒に理想を口にするモノでは無い筈。
” 中位、下位の貴族では無いのだから…… ”
王族と、高位貴族家の者達の言葉は重い。 貴族学習院の中では、特にそうなのだ。 だから、社交界の様な大人達の間に在る常識と、若き青年貴族達が集められた この場所 の常識に、重大な乖離が認められると、そう結論に至る。
問題の大きさに、目の前から光が消えた。
そして、この問題を解決する手段が、今の所何もない事に気が付き、愕然とする。 殿下の傍には、殿下の理想を体現するかの様な、光り輝く御姿を示す、聖女ヒルデガルド=リッチェル侯爵令嬢が侍る。
天真爛漫にして、慈愛深き優しき女性貴族。 侯爵令嬢と云う立場にしては、余りにも明け透けな感情を出し、弱き者には慈愛の手を所かまわず差し出し、強き者にはその美貌と警戒心の無い笑顔を振りまく。 アレでは…… いつか身を損ねるのではないのか。
年少の自分から見ても、貴族令嬢としては余りに未熟な彼女は、神より与えられたその資質を持って…… 第一王子殿下の御心に棲み付いたのだと、感じていた。 様々な 『奇跡の業』? を、以てしても、聖堂教会は、ヒルデガルド嬢を『聖女』として認定していない。
『聖女』と成るには、教会に於いての『勤め』を重ね、さらに『聖地巡礼』を経ねば聖女候補として認定も出来ないと、そう宣言している。 どちらも、ヒルデガルド嬢に関して言えば無理な事。 貴族女性としての栄華を誇る彼女が、清貧を志す聖堂教会の修道女の生活に慣れる事など無い。
更に言えば、たった一人きりで行わねば成らない、『聖地巡礼』の旅など、リッチェル侯爵が認める筈もない。 よって、彼女に関して特段の配慮を聖堂教会に求められたのだと聞く。
” できないでしょ、聖堂教会には。 連綿と続く聖女候補達の研鑽を無にする事と同じだもの。 でも、リッチェル卿は、それも気に入らない。 だから、大人の世界でも、教会と貴族の分断は進んでいる…… 第一王子の貴族学習院での振る舞いを、王宮の方々が止めないのは、その辺りが理由なのね。 闇が…… 深いわ ”
そこまで思考が進むと、自身の力の無さに自然と項垂れてしまう。 状況を読み出す事は出来たと…… そう、自負できる。 けれど、それだけ……
その状況に対し、なんら手が打てない。
ただ、ただ、孤独を感じてしまうのみ。
自身に侍っていた者達もまた、第一王子殿下の理念に強く惹かれている。 もし、自身がそれに反する事を口にすれば、容易く離反されてしまうのは、火を見るより明らか。
社交界に於いて、孤立は無力と同じ。
影響力を保つ為には、敵対する派閥とも交渉できる「数の力」は必須。 女性貴族は、その才能よりも、社交術が何よりも重要視されるのが、この国に於いての常識。 それを手放す事だけは、しては成らない。 考察と状況認識は出来ても、それだけでは影響力を発揮するのは難しい。
従姉姫の様な稀有の人物など、そうは居ない。 孤立していても、凛として清々しく、隠然たる影響力を地下水が流れるように発揮するなど…… 自分ではできない。
” 力が…… 頭脳が…… 必要なのよ。 第一王子殿下に於ける、兄様の様な人が…… ”
そして、一人の人物が思い浮かぶ。 最近、フェルデンの『寄り子』となったと、宣言した法衣子爵家。 彼の家の者達は皆優秀で、宰相である父が奉職する宰相府に於いても、その能力が徐々に発揮されていると、そう母にも聞いた。
そして、その家に一人の娘が居た。
法衣子爵家の存続の危機に、断固とした行動力を以て彼の家を救ったと、そう母から教えられた。 なにより、自身の目でも見知っている。 分厚い第一王子の取り巻きの壁に突撃して行く、眼付きの悪い法衣子爵令嬢。 その上、曾て、あのヒルデガルド嬢に、淑女の在り方を『意見』をしたと云う『噂』もある。
貴族の体面をギリギリ保った装いで、煌びやかな集団に突撃するのは…… 自分では無理だとそう思う。 余りにも情けなさ過ぎる。 矜持もなにも有ったモノでは無い。 それ程に、切羽詰まっていたとも云えるのだが、自分には出来よう筈も無い。
――― 無茶にも程が有る。
重く圧し掛かる現実に、今にも潰されそうな彼女は、もう一段深い場所に到達する。 そして、心の闇から漏れ出す様な、そんな『心の呟き』を、『言葉』を………… 織り上げた。
暗闇に小さな輝点を見出したかのように……
絶望に、希望を見出したかのように……
” でも……
でも……
でも…… ね。
そうよね。 そのくらいの『度胸』と『行動力』が、無い事には…… この状況を打開する事なんて……
――― 出来はしない。
彼女と面識を持ちましょう。 そして、彼女の様に矜持を封じ願いましょう。 わたくしの道を示して下さるように、願いましょう。 それが、王国の未来に光を置く手段ならば…… わたくしの矜持など、芥も同じ。 ならば、すべき事は一つ。
―――― 逢わねばッ! ”