エルデ、フェルデン侯爵家 別邸に於いて暫しの休息を得る。
2024/4/1 挿絵追加。
―――― フェルデン侯爵家の別邸に帰って来てから、直ぐに執務室に連れ込まれたのよ。
まぁ、そうなる事は何となく…… 『理解』していたけれどもね。
枢機卿様方が公務で使用する豪華な馬車が別邸の正門から入り、プロムナートから玄関へ滑り込んだからなのよ。 豪華な馬車は、周囲を十数騎の聖堂騎士が騎乗する馬が取り囲んで、さらに先導する様に、護衛修道士の方々が列を成して行進して帰って来た…… みたいに見えるのだもの。
馬鹿みたいに豪華な行列。 そんな状態で、第三位修道女が高貴な侯爵家の別邸に入って来たのよ。 別邸周辺の高位貴族家の方々も、何事かと道行く豪華な馬車を覗き込んでおられるのすら、見えたんだから。 そんな状態で別邸の表玄関に横付けされたら、何事かと周囲の方々を含め驚かれるに違いないもの。
だから、怒られると思っていたの。
案の定、慌てたバン=フォーデン執事長が、いつもとは違う固まった表情で出迎えてくれた上に、別邸執務室に直ぐに向かうと云われたのよ。 あぁ、間違いなく怒られると、その時は暗澹たる気持ちを抱えてしまったわ。 だって…… こんな待遇を私自身は求めていなかったんだもの。 こっそり、小聖堂側の入り口から入るつもりだったのよ。
お陰で、馬車の中では、頭を抱えて震えて小さくなっていたのよ。
――――
もう一つ、少々困惑している事が有るのよ。 そう、教会が付けて下さった護衛修道士様の存在。 記憶の泡沫の中には、その様な肩書を持った方なんて居られなかった。 そして、過去の私の生涯の経緯を考えると、アーガス修道士もまた、破滅への道へと誘う存在として、世界の意思が用意したのかもしれない…… なんていう不安すら感じていたのよ。
そんな私を、優し気に優雅に見詰めるアーガス修道士様。 馬車の中、別邸への道すがらの『会話』が、記憶に刻まれたの。 アーガス修道士様の御様子も含め、何故…… 私の護衛にと選ばれたのか…… ちょっとだけ、理解出来たの。 彼の方は、紛れもなく『教会』の ” 隠し玉 ” だったのよ。 だんまりを決めて、小さくなって震える私に、アーガス修道士様は、穏やかに言葉を紡がれたの。
「おや? 善き修道女エル殿は、高位なる者への待遇をお好みでは無いのかな?」
「えぇ…… まぁ…… 過ぎたるは及ばざるが如しです。 わたくしには豪華に過ぎますし、これ程の護衛は必要は有りますまい。 高々、辺境教会であるアルタマイト教会の第三位修道女にこれは遣り過ぎです。 そうは思いませんか? アーガス修道士様」
「あぁ、私の事はアーガスと。 こそば痒いですので。 まぁ、そう云う事なら、御心情は理解できますな。 第三位修道女だと、ご自身が認識しておられるのならば。 しかし、貴女はそんな下位の修道女では無いのですよ。 そうでしょ、神聖聖女エルデ様」
「…………私の事は『エル』と。 少々事情が有りますので、この姿で居る時には、エルと御呼び下さい。 間違っても私の事を『神聖聖女』とは、呼ばないでください」
「エル殿…… まぁ、そうでしょうな。 何しろ、厳重に秘匿された『神聖聖女』ですからな。 承知しました。 その上、フェルデン侯爵家が『秘蔵ッ子』にして、『フェルデンが賢姫』と噂になっておりますしな。 『エルディ侯爵令嬢』が『もう一人』の貴女なのですからな。 そちらの『擬態』をされてしまいますと、私のような護衛修道士が、『侯爵令嬢』様に言葉を掛ける事すら不敬と成りかねませんからな」
「……事情が御座いますのよ、擬態に関しては。 養育子と成りましたのは、『神籍』を放棄せずに、貴族家の庇護を受ける為の方策に他なりません。 そちらの姿をしている時には、エルディと、お呼び頂ければ幸いに御座います」
「承っておきますよ、エル殿。 ふむ…… エルディ嬢…… 嬢様かな。 それで良ければ、その様に。 まぁ、事情は理解しております。 極端な話、だからこそ、この私が派遣されたのです」
「つまり、私の事情も既に全てご存知だと?」
「ええ、『密約』も含めて。 そうでなくては、フェルデン侯爵家 『別邸』への同行など命じられませんよ。 まぁ、私が『のんき者』なのが、主たる原因なのでしょうがね。 ゆるゆると行きましょう。 貴女の道は険しく、相当に危ういのですから。 ……せめて、周りが見える位の灯となりましょうか」
「私が道を踏み外さない為の…… 昏き道行に必要な『灯』として…… ですか……」
「ええ、教皇猊下の御配慮ですよ。 エル殿は未だ若い。 能力も見識も有るが、経験が不足しておりますな。 ……同年代の者達と比べると、相当に高いが、狸と狐を相手どるには、ちと弱い。 リック等が思っている程、貴女の存在は強固では無い。 それを護衛するのが、私に科された『役目』。 まぁ、気にしなさんな、エル殿。 その身、危なく成れば、相応に動きますれば」
「……護衛修道士様でしたわね、そう云えば」
「そうですな。 このアーガスは、護衛修道士ですからなッ! フッハッハッ!」
なんとも掴み処の無い為人ね。 その上、この胡散臭い笑顔と口調。 リックデシオン司祭様は、なにやらもの言いたげな表情で送り出されたんだもの、なにかあるのよね…… でも、護衛修道士様となれば、修道士様方の中でも優秀と云えるのよ。
多少、御年は召していても、動ける上に『聖典』の理解は人一倍。 と云う事は、相当に『出来る』方と云う訳なのよ。 流石は教皇猊下の『肝煎の人選』だもの疑義を差し挟む事は出来ないわ。
まぁ、気心が知れるまでは、ゆっくりと距離感を図っていく事にしよう。 アーガス修道士様は、そんな私を、面白気に眺めておられたのよ。
――――
アーガス修道士様と一緒に連れ込まれた先は、フェルデン侯爵家 別邸の執務室。
執務室には既にフェルデン侯爵様がいらっしゃったの。 執務机を前に座っておられる伯父様の後ろには何時もの通りフェルディン事務次官様。 重厚感あふれる執務室の空気が更に重く湿っている感じがするのよ。 その原因はフェルデン侯爵閣下の様子。
―――難しい顔をして、腕を組んで私を見詰められておられるのは、如何なる仕儀なのか。
怒ってらっしゃるわけではないのは、眼の色を視れば理解できる。 どちらかと云うと、『困惑』。 相当に深い困惑の感情を表情に浮かべられておられるのよ。 『お叱り』を受けるのかと思っていたら、雲行きが怪しいわ。 私の事では無くて、別の事で御心を痛めておられるのかもしれないわ。 沈黙を続けるつもりは無いらしい。 重く深い声色を以て、私に問いかけられたのよ。
「エルディ…… 君は自身をどの様に規定しているのだろうか?」
「規定?に、御座いますか? ……この修道女服を纏っている間は、『神職』を授かっている神官ですわ、フェルデン卿」
「別邸の…… 本棟に暮らしている時は?」
「お約束通り、『侯爵令嬢』としてですわ、” 伯父様 ”」
「成程。 二足の靴を使い分けていると。 そして、本来の姿は、其方の御仁と同じ『神職』に就く神官であると。 それでは、『今は』フェルデンの『養育子』として、対応して欲しいな。 状況はそちらの方面で、混乱を極めている」
「承りました。伯父様」
「そうか、エルディの本質は『神籍』を持つ、神官なのだな。 教会との約束事として、理解している。 貴女が貴族の論理に引き摺られる事は無いと云う事だな。 ならば、問題は少々大きくなるか……」
「なにか…… 御座いまして?」
「あぁ、少々な。 リッチェルが家に逗留していた『神官』が、聖堂教会に召喚された。 異端審問に附されたと聞き及ぶ。 そして、その身柄の処置が問題となった」
「と云いますと? あぁ、あの聖女様の導師様の事でしょうか? 神官では御座いませんわよ、修道士補に御座いますわ。 ええ、少々問題行為を成した修道士補」
「そうなのか。 そ奴の名はジョルジュ = カーマン と云うのも? バヒューレン公爵家の庶子の男児だ。 彼の家では、その身を置く場所が無い為、事情有る貴族子女の受け入れ先として有名な『場所』に居た筈の者だった」
「ええ、存じております。 一時期、同じ『場所』に居りましたもの。 あの方…… あまり評判は宜しくありませんでした。 修道院への入院にしても、少々『特殊な事情』を、お持ちだとの触れ込みでしたので」
「『妖精の加護』 ……それも知っていたか」
「ええ、特別扱いを成す為に相当な金穀と共に公爵家が用意された御話だとか。 アルタマイトの修道院では有名な御話ですわ。 彼の者が持ち歩く、バヒューレン公爵家から贈られた御守の宝飾品には、幾つかの『聖句』に対し発動する『発光の符呪』が、成されておりましたもの。 堂女の間では…… まやかしの御加護と噂されておりましたわ」
「……それも、存じていたか。 累積した色々な『聖典』に対する『罪』が、ついに隠しおおせる事が出来なくなったと云う事だった」
「身柄は拘束され、王侯貴族と教会の間に在ると」
「未成年が故に、命までは取られぬが、教会における身分と権能は全て停止されて収監されている…… らしい。 叩けば埃ばかりだとか。 対応に当たっている者達も頭を抱えている。 あ奴の生家であるバヒューレン公爵家の当主も同じように困惑の色を隠せない。 ……そして問題はその身を寄せていた侯爵家だ」
「リッチェルですか。 また、あの家なのですね」
「あぁ、また、あの家なのだ。 自身の愛娘を利用した枢機卿と同様の事を、弱小他家の者に成したと云うのに、愛娘のお気に入りと云う理由で不問にしろと…… 強弁を振るっている」
「教会的には…… 不問になど出来ませんわよ、あの方の仕出かした事は」
「『教会の意思を持つ者』は、そう云うだろうな。 同じ高位貴族家の間でもリッチェルが遣りようは問題視されている」
「彼の方は、未成年ですから、極刑には処せられません。 祈り有る者へ、誘う事もまた可能と判断されるでしょう。 ……ですが、相当に重い罪を犯されておられます。 さて…… どの様な罰が相当するのか、私には判りかねます」
伯父様の困惑の原因が、そこに有ったのか。 思いもよらなかったわ。 でも、まぁ、『記憶の泡沫』の中でも、ジョルジュ様はヒルデガルド嬢のお気に入りでは有ったわね。 有体に言えば、彼女の賛美者。 もう、盲目的に賛美し、敬愛し、大切にされて居たのだもの。
故に大甘な対応しかしていなかった。
現世に於いては、そんな彼等を牽制する侯爵家が食客たる『エルデ』は存在しない。 多分…… 執事見習いの従者として雇われているアントンと二人して、大甘な対応で暮している筈。 何となくだけど、ヒルデガルド嬢周辺の事は理解出来てしまうわ。
彼等は、聖女ヒルデガルド様を包み込む真綿の防壁。 外敵から強固に護り、彼女の意思を具現化し、有象無象を近寄らせない、そんな篩い的な存在。 そうね、そんな彼女を包み込む真綿の半分を取り去るのは、リッチェルとしては看過し得ないかも……
静かに佇んでおられたアーガス修道士様が、殊の外静かな口調で言葉を紡がれる。 あぁ…… アーガス様、貴方にも既に発言権を与えられていたのね。
「しかしまぁ、そ奴の『神籍』は、明日にでも廃却されますでしょうな。 アルタマイト教会の大司教殿は、そういう事に『厳正』に当たられる。 教会内で有らば、多少の目溢しと、修道士としての再教育と云う事が試みられますが、遠く離れたこの王都に於いては、それも期待できない。 教会の管理が及ばない場所では、矯正は不可能だと判断されるでしょうな。
更に言えば、彼をこの王都に呼び寄せた貴族派の枢機卿共はすでに『神官ならざる者』として、その首が物理的に離れている。 彼を擁護する者など、今の王都聖堂教会内部には存在しない…… ですな。
アノ若者は…… 多分、リッチェル侯爵家に『食客』として、庶民として置かれるのではなかろうか。 元々、行く先が無い若者だからな。 今までの様に『神官の式服』を着用しようとしても、神殿はそれを許しはせぬでしょうな。 式服一式は、貴族派の枢機卿が下賜したモノにより、それも剥奪されましょうからな。
詰まる処、貴族家に寄生する訳有りの ” 一般庶民 ” と成り下がる事でしょうな。 当然、生家から貴族籍を贈与される訳も無いのは、彼がアルタマイト神殿の修道院に入れられた事からも想像がつく。
他家の『問題の有る庶子』を、身内に引き入れるかどうか…… リッチェル侯爵とやらが、そこまで腹を括れるかと云う事に尽きましょうな」
深く…… 重い声色でアーガス修道士は、彼に見える情景を述べたの。 そうね、極刑に処せないとなれば、与えていた権利権能を返還してもらい、修道院に入る前の彼に立ち戻って貰い、放逐するしか無いわね。 ヒルデガルド嬢の導師神官としての立場を失わば、特別許可の元、常に付き従う事も出来なくなる。 貴族籍が無い彼は、神籍を持つ『修道士』として彼女に付き貴族学習院の敷地に入っていた。
つまり…… もう、彼が学習院に来ることは出来ないのよ。 『貴族籍無き者』、『貴族籍に準じる者』に非ざる者は、あの『黄金の鳥籠』には、入る事は出来ないのだものね。 さて、リッチェル卿どうする?
「落とし所を見つけねばな。 あの困った御仁も…………」
――― § ―――
彼の対処は、国王陛下の御裁可が必要な事柄となりそうなの。 だから、何処までの処分が下るかは、未だ五里霧中。 そして、国王陛下は教会と王侯貴族の間にある『深く昏い溝』に対し、強く憂慮を持たれている。 その溝を作り出した貴族派枢機卿達に対し強い不信感と不快感を持たれておられた。
教皇猊下がそんな不逞の輩に対し、極刑をもって対処された事を強く支持されているのよ、国王陛下は。 だから、ジョルジュ様の未来は昏いのよ。 その昏さが何処までとなるか。 それは貴族社会の中で決められるべき事と成るの。 国王陛下の御宸襟への忖度がどの程度表出するかって処かしら。
『禍福は糾われる縄と同じ』
フェルデン卿にとっても、それは同じ事。 頭の痛い事柄があれば、喜ばしき事柄も有るのよ。 そして、その現象の根は同根だったわ。 そう、この五日間の間に、ファンデンバーグ父子が執政府に招かれていた。 各種の考課票も合わせて吟味されて、ファンデンバーグ父子は所属部署を執政府に変更されたの。 言わば公職復帰と考えられる事柄ね。
それに伴い、ファンデンバーグ法衣子爵家は、寄親の変更も宣言された。 詰まる処、今までの『寄親』が何の庇護も与えてくれなかったと、そう表明する事と同じ。 今までの『寄親』の主家はリッチェル侯爵家。 ええ、ファンデンバーグ法衣子爵家を追い詰めていた彼等と、奥方様を苛むような祭祀を執り行ったジョルジュ様が寄宿していた…… そんなお家だったから。
十分な理由よね。 そして、新たな寄り親はフェルデン侯爵。 宰相府所属と成れば、それも納得の事。 旗色鮮明にして置かないと、宰相府だってお困りに成られるもの。 でも…… 『その事』については、フェルディン事務次官がとても喜んでいた。
「ファンデンバーグ法衣子爵家の御当主と御継嗣。 素晴らしい頭脳の持ち主だ。 アレを腐らせておくとは、リッチェル卿は何を考えていたのか。 良く判らないな。 しかし、これで宰相府は最強の戦略家を持つ事が出来た。 執政に大きな幅と余力が出来た。 エルディ嬢、よくぞ知らせてくれた」
「勿体なく。 見出されたフェルディン卿の眼力の高さ故の事に御座いましょう。 彼の方々は、困難に出会っても、折れず曲がらず…… 素晴らしい貴族の矜持をお持ちの方々でした。 奥方様の為人も、お嬢様もそれはそれは、素晴らしい方々でしたので、法衣子爵家を末永く庇護する事は、王国の安寧に直結するかと愚考いたします」
「あぁ、その通りだ。 アーガス殿、教会からの慰謝は既に?」
「済みました。 まぁ、色々と思う所は有るとは思いますが、教会の担当者が誠心誠意、真心を込めて陳謝し、彼の家が持ち出したと思しき金穀の補填は済ませました。 感謝の感情有れば、『神様に祈りを』と云う事で、手打ちとしましたな」
そう仰ると、アーガス修道士様は私の方をチラリと見て、バチンっと片目を閉じられたのよ。 なによ、その、何もかも存じておりますみたいな感じはッ!
「法衣子爵夫人の経過観察は、聖堂教会 薬師院にて行います。 まぁ、心配いりませんよ、エル殿の処置はそれはそれは丁寧でしたから。 同道されたお嬢様について、一つご提案が」
「なんだろうか?」
「グレイス = ケイトリッチ = デル = ファンデンバーグ法衣子爵令嬢の事です。 既に薬師院の者達とは気心がしれ、今ではケイト嬢と呼称されておられる方なのですが、あの方は生来目が非常に弱い。 弱視と云えるでしょう。 常に不機嫌そうな表情をしていると、皆に言われ心が病んでおられます。 まぁ、これも『聴聞神官』が、ゆっくりと心を解きほぐし、自身のお口から告白でしたから、確かでしょう」
「おいおい、聴聞神官の聞き取った内容が漏れているぞ、いいのか?」
「大事無いでしょう。 それを以て強請、集る事が無ければ。 病では無いので、薬師院では対処できないとの事。 ならばと思いましてな」
「ん? どういうことか」
フェルデン卿が疑問を口にする。 アーガス修道士は笑顔を浮かべ、対処方法を紡がれる。 其処には『大人』の思惑がたっぷりと含まれていたのよ。 あぁ、これが権謀と云うものなのかぁ……
「いや、なに、ちょっとした方策です。 ファンデンバーグ法衣子爵も又…… 人の親。 困難に有っても凛として、貴族の矜持高く生きて来た、そんな愛娘を可愛く思わぬ事は有りませんな。 そんな御令嬢の憂いを取り除けば、法衣子爵の忠誠心も更に上がるかと?」
「…………利用するのか、『人の情』を。 それが、修道士の為されようか?」
「人聞きの悪い事、仰いますな。 するかせぬかは侯爵閣下の御判断。 善き事ならば、進言するのが修道士が本分。 なに、簡単な事。 妖精硝子により、一本眼鏡を御作りになりませんかと云う、そう云う進言にございますれば。 彼女の目は、相当に悪い。 普通の眼鏡では分厚く成りましょうな。 それでは、余りに可哀想だ。 年若き御令嬢の顔を飾るにふさわしい眼鏡を一本、ご新調されお渡しされるのが宜しいでしょうと、そう申し上げます。 まあ、妖精硝子が、かなり高価なので、法衣子爵家の懐具合ではかないませぬ故…… そういう事です」
「…………なるほどな。 一見、倖薄き御令嬢に救いの手を差し伸べている様に伺える。 しかし、お前…… 相当な狸だな」
「はて? 何のことでしょうか?」
「教会の懐を痛ませず、高価な物品を敢えて当人では無く御令嬢に寄親から与え忠義を増進させる。 困難な状況に於いて、不便を強いた愛娘に、親としての面目を立たせる。 それを流れる様に提案するお主…… 一体何者ぞ」
「聖堂教会が第三位修道女エルの傍付護衛修道士、アーガスに御座います」
「…………狸め」
ははぁー なんて人なの。 守秘義務がとても強く働いている『聴聞神官』から個人情報を抜き取り、それを以て、此処で考察を紡ぎ、提案として話を成す。 『教会』、『フェルデン侯爵家』、そして『法衣子爵家』に対し、其々に『利』を齎せる提案を、しれっとしてしまうなんて。
本当に、この護衛修道士様、何者なの?
まぁ、ここで、『御話』は、一旦終了。 後日、諸問題を執政府と王家で話し合い、結論を出すとの事。 その結論が得られるまでは、ジョルジュ様は聖堂教会の個室にて、神に祈られる事になるのよね。 先ずは、学院に於いて、問題行動を成す修道士補が居なくなったのは重畳。
リッチェルも大変ね。 国王陛下の勅命ならば、云う事を聴かざるを得ないもの。
それに、相応にヒルデガルド嬢の周囲の者達を見直す可能性も出てきたわね。 堅固な守りを作り上げるのならば、権威を持った神官候補の脱落は痛いもの。 その役目を高々執事見習いの従者一人におわせることは出来ないわ。
まぁ、そうなれば…… あの家の考え方を知っている私にとっては、行く先が見えてくるのよ。 成人前とは言え、もう十五歳になる令嬢の周りに男性がウロチョロするのは、外聞も悪い。 それが、幾ら優秀とは言え孤児院出身と成れば、看過し得ないわ。
ルカの様に公的な評判を既に入手して、さらに商家が後ろ盾と成り、準貴族の籍まで用意されている様な人じゃ無いもの、アントンは。 執事見習いとしては、十分に有能で、色々な術策に長けているのは、知っているわ。 だけど、出自だけは韜晦できない。 だって、あの人は私がアルタマイトの孤児院から連れて来た人なんだものね。
ばっちり、履歴は残っているわ。
今までは使い勝手の良い駒であったけれど、これからは、ジョルジュ様が居なくなった事で、厄介な人物になりかねないと云う事。 ならば、リッチェルとしてどうするか。
――― うん、排除するね。
私ならどうするか。 傍付の執事として有能ならば、その有能さを十全に引き出せる環境に放り込む。 ええ、リッチェルが領地、領都アルタマイトに於いて、御継嗣様付に変更するわ。 見習いの環境としては最高の部類じゃない?
術策を弄するには、アルタマイトはそれを必要とする場所でも有るのだから。
つまり…… アントンも又…… 王都から消え失せると云う事。
『記憶の泡沫』における、ヒルデガルド様の最も近い者達が、これで消え失せたと云う事になるわ。 ええ、そうよ。 過去世界では、王都に帰還したリッチェル侯爵家の愛娘であるヒルデガルド嬢に最も近い位置で彼女を賛美していた三人が、彼女の元を離れたと云う事。
その三人。
王都の大店に勤務して、市井の情報を取り、ヒルデガルド様が望むモノを用意していた……
ルカ=アルタマイト。
侯爵家が食客にして、ヴェクセルバルクの片割れたる邪悪な『エルデ』の傍らに於いて、エルデが悪行を阻止しつつ、ヒルデガルド嬢の安全と安寧に尽力していた……
アントン=アルタマイト。
妖精王様から御加護を戴き、聖女が祈りを以て世に安寧を齎せられる存在となったヒルデガルド嬢を守護し導くためにアルタマイト教会より遣わされた、精霊に愛された『修道士補』。 その崇高さと、妖精様方の力を役立てる為に、王都聖堂教会に於いて未成年にも拘わらず『神官』としての地位を手に入れ、ヒルデガルド嬢を教導した……
ジョルジュ=カーマン 導師
『記憶の泡沫』の最古の記憶にして、生まれ変わりの最初期には、私が『愛し』て…… ヒルデガルド嬢の『愛』を一身に受けられた三人の方々。 ルカの歩く道は、大きく異なり、ジョルジュ様は自身の行いにより、その身に禍が降りかかる。 そして、均衡が崩れたヒルデガルド嬢の傍にはアントンのいる場所は無くなった。
二十七回の過去における、悲惨な死の原因となった三人の方々の行く末が、違ったものになったのよ。 ええ、とても違った形にね。 運命に怯まずに生きて来た私。 だからこその変化だと思うの。 でも、その事に安堵を覚える事は無いわ。
だって、知っているのよ。
私が歩んでいる道が、如何に細く険しいかを。 心を静め、これからも生き残る事が出来る様に、『祈り』を心に、生きていくわ。
―――― § ―――― § ――――
学習院は、もう何日かお休みしたの。 ええ、約束違反とは云えるかもしれないけれど、如何に大変な事があったのか、それは、貴族学習院側にも通達されて居るのよ。 そして、ジョルジュ様の処遇も又、色々と問題と成っているのよね、学習院側では。
貴族籍を持たぬ『神官』として、ヒルデガルド嬢に同道を許されていたけれど、その資格が剥奪されそうなのよ。 それでも、学院への登院を許すか許さないかで、教職員様方が侃々諤々の議論をされて居たらしいのよね。
フェルディン卿が苦笑と共に、そんな事を語って下さったの。 あの場でね。 原因が私だと知っているのは、ウルティアス大公と、その周辺。 だから、ジョルジュ様の処罰が決まるまでは、登院を見合わせた方がよいだろうと、そう思召しだったの。
情報が何処から漏れるか判った物じゃないし、漏れたら漏れたで、彼の方がどの様な罪に問われ、誰に断罪されたかを公示されるまでは、全部私のせいにされそうだったんだものね。 だから、そう云う判断に至ったのよ。
そう云う訳で、私には時間が取れたの。 ちょっと早いけれど、フェルデンの小聖堂の『豊穣祭』を執り行う事にしたのよ。
当然、托鉢は、再度成さねば成らなかったわ。 でも、リックデシオン司祭様はお約束通り、私の行動には掣肘を加えずに、アーガス様を伴って市街地へ托鉢に向かったの。 二人掛かりで『聖句』を唱えると、小娘一人より喜捨の量は増えるのは、ちょっと笑ったわ。
体格の良い、修道士様が小柄な修道女を伴い托鉢を行う。
どこぞの中規模聖堂の托鉢と勘違いされていたようね。 ご指摘しようとしたら、アーガス修道士に止められたの。
「御心です、受け取りましょう。 相手を見ての喜捨でも、全ては祈り。 ならば、受け取るのが礼儀というもの」
ですって。 この方の心内での《虚実》って、どうなっているのかしら? あっという間に托鉢の御喜捨は集まったの。 かなりの量なのよ。 それを小聖堂に持ち帰り、祭礼の用意をしたわ。 ちょっと、腑に落ちない部分も有るのだけれど、これも『祈り』の一つの形だと、無理矢理納得する事にしたのよ。
フェルデン小聖堂の『豊穣祭』は、フェルデン侯爵家 別邸の皆様と御一緒にお祭りしたの。 寄宿されているお二人にも、ご招待状を出したの。 珍しいかもと、思ってね。 大々的にお祭りをする『収穫祭』はご存知でも、教会の祭礼である『豊穣祭』は、他国には知られていない筈だもの。 打診は、快く受け入れて貰ったわ。
豊穣祭の祭礼は、ニコニコ微笑みながら、朗々たる聖句を口にされるアーガス修道士の御姿に圧巻の想いが心にあったの。 その『聖句』の力強さ、聖句に近寄り朗々たる歌声に合わせられる精霊様の『音』の数多さ。 真摯に祈る祭礼の重厚さ。 まさに、真の修道士の実力を見たわ。
ええ、とても善き『豊穣祭』になったと思う。
祭礼の後は、勿論お楽しみの振舞いの時間。 供物を用いた『飢餓施』の粥を作るの。 大地の大精霊様や、眷属の精霊様、妖精様の御加護がたっぷりと詰まった、そんな穀物を用いた粥のお味は……
とても、暖かく、滋味に溢れ……
『豊穣への感謝』を強く、強く、身体の中に刻み込まれたみたいだったの。 ええ、ええ、とても、とても、清々しかったのよ。
「 ” 大地との絆、ここに極まる。” ですかな。 エル殿。 成程、貴女が拘る筈でありますな。 微力ながら、お手伝い出来た事、このアーガス喜ばしく思います」
「勿体なく…… ありがとう御座いました」
連絡を待つ事、五日間。 祈りを捧げ、お勤めに邁進し、アーガス修道士と神官として小聖堂に詰める毎日だったの。
そして、五日目。
本棟の執務室にお呼ばれする。 何もかも同じと云う訳にはいかないけれど、また私の『侯爵令嬢』な日々の始まりが告げられるの。 ええ、そうよ、貴族学習院に登院する様に願われたの。
出された結論としてジョルジュ様は、アルタマイト教会の様な ” 甘い ” 場所では無く、北領は雪深くとても厳しい土地柄に立つ『辺境の砦』へと送られた。 教会としては、未成年故に極刑を科すことはしないが、『神籍』は剥奪。 二度と、神籍の取得は叶わないと、そう結論付けられた。 よって彼は、貴族家出身の庶子として、北部辺境域の『辺境の砦』に送られ、その地での強制労働が決まったのよ。
発令は、王宮より発出。 つまりは、異例な国王陛下の『勅命』として。
――― 立場は、犯罪奴隷。
年期は…… 『罪が清められるまで』
国王陛下の『勅』と云う、途轍もない『所』からの、彼の者の『罪』を償う為の『処罰』と云う訳よ。
大々的に公示された、ジョルジュ様の『罪』は、貴族世界からは『非難』の声が上がり、国王陛下の下した『罰』は『妥当』なモノとして受け入れられた。 こうなれば、如何なリッチェル侯爵家であれど、どうしようもない。 ヒルデガルド嬢の堅固な真綿の甘い城の半分が、捥ぎ取られ捨て去られた。 犯罪奴隷という、名誉も何も存在しない場所へと。
国王陛下…… リッチェルがやり方に、相当頭に来ておられたと見えるわ…… 怖い、怖い……
そして…… 謂れなき非難が私に向く事が無くなったとして、『侯爵令嬢 エルディ』が、貴族学習院に登院する日々が、始まるのよ。 あの薄氷を踏むような毎日が帰って来る。 身を慎み、静かに祈りを捧げよう。 学習院の小聖堂での『祈り』と、図書室での知識の集積に、勤しもう。
なにか、有った時に、困らない様に。
誰と会話しようと、これ以上溝が深まらない様に。
それが、私の為すべき事柄なのだもの。
でも…………
ちょっと、憂鬱なのは……
…………………… 内緒。
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